光の中を歩もう

2020.09.15「米国の福音派3」
 アメリカ大統領選の行方を左右するともされるアメリカの「福音派」は、日本では「聖書根本主義者(ファンダメンタリスト)」と言われる人たちです。
 外部から見ると、同じように聖書を神の言葉として信じていると思われるのですが、一番の違いは聖書の全体を見ているかどうかでしょう。
 30年ほど前になりますが、私のところに来たエホバの証人から、『それでも三位一体を信じるか』との題の小冊子を受け取りました。そこにはアメリカで最も権威ある辞書に「三位一体は不可解だ」と書いてあると引用されていました。そこで、図書館でその辞書を開いてみると、「『三位一体は不可解である』とされるが…」との文章の後に、「三位一体」の正当性が詳細に説明されており、キリスト教にとって欠かせない、大切な教理である」と結ばれていました。再度訪ねてきた彼らに、その他にあった同様の引用も含め指摘すると、黙ってしまいました。
 どんな文章でも、部分的にとらえると著者の主旨とは違う解釈が成り立ってしまいます。聖書も同様で、部分的に見てしまうと、突拍子もない解釈が可能になるのです。特に顕著なのは、イスラエルに関する解釈です。トランプが中東の外交成果を強調しているのは、彼らが、聖書に出てくるイスラエルを、現在の「イスラエル共和国」として受け取っているためだからなのです。
2020.09.08「米国の福音派2」
 9月2日朝日新聞は福音派について、「聖書の記述を忠実に解釈するキリスト教の保守派」とし、「親イスラエル」だと記していましたので、その部分を検証したいと思いますが、その前に私たちの理解する「福音派」を確認しておかなければなりません。
 まず「福音派」とは、「聖書は神の霊感によって書かれている、誤りない神の言葉」であると告白する群れです。これは当たり前だと思うかも知れませんが、実は、キリスト教会の中には「聖書を唯一の正典」としていても、「すべて」が神の言葉だと信じていない群れが存在します。得てしてこのような群れは、キリスト教的思想を伝えることに重点を置くため、社会問題などに積極的に関与する傾向がありますが、福音派の範疇からははずれます。
 聖書の言葉をそのまま信じる信仰によって、私たちは、そこに書かれている中心的なメッセージ、すなわち、主イエスによる救いの成就を理解することができ、同時に、この福音を伝えることが使命であると受け取るのです。その点で、アメリカの福音派とは変わりがないと言えなくはありません。
 ところが、「親イスラエル」を調べると、彼らは「イスラエルは神がユダヤ人に与えたと考え、ユダヤ人を祝福することで、神の祝福を得られる」と信じており、「聖書根本主義者」と呼ばれている人たちであることがわかってきます。(続く)
2020.09.02「米国の福音派」
 いよいよアメリカ大統領選が迫ってきました。現在、民主党のバイデン候補が有利とされていますが、共和党の現職トランプ大統領もイスラエルとUAEの国交正常化の成功をアピールするなど、懸命に民衆の支持を取り付けようとしています。
 そのような中、「トランプ大統領が『福音派』指導者20名ほどをトランプタワーに招き、『当選すれば、今まで通りホワイトハウスとの絶対的なアクセス権を与える』と伝えた」と報道されました。
 9月2日朝日新聞朝刊では福音派について、「米人口の25%とも推計される福音派は聖書の記述を忠実に解釈するキリスト教の保守派で、人工妊娠中絶や同性婚への反対、親イスラエルの姿勢などで知られる」と紹介されており、続けて「敬虔(けいけん)なキリスト教徒ではなく、離婚や不倫を重ねたトランプ氏とは本来、価値観が相いれないはずだ。だが、結果的には強力な支持基盤となった」とされています。
 ここから、私たち「福音派」と言われている日本のキリスト教会の立場と、日本の新聞が報道するアメリカの「福音派」との違いを読み解き、誤解を招かないように、もう一度、この欄で確認したいと思います。
 「福音派」とは何か。できるだけ要点をまとめて解説することにいたします。(続く)
2020.08.24「独裁」
 ベラルーシの選挙は誰が見ても不正があったことがわかります。その独裁者ルカシェンコを手なづけているのがロシアです。プーチン大統領もまた政敵の暗殺を支持して独裁を作り上げているのですから、昔のムッソリーニとヒトラーのように思えて仕方ありません。トランプが作ったわがままで傲慢な潮流が変わるのはいつになるのでしょうか。
 ナチス政権下にあったオーストリアを舞台にしたミュージカル映画をご存じでしょう。実話に基づいて制作された「サウンド・オブ・ミュージック」です。
 そのような緊張感の中におりこまれている清涼な音楽は秀逸でした。
 中でもやはり代表格はドレミの歌でしょう。日本では「ド・はドーナツのド」と普通に歌っていますが、あれ、違うの知っていましたか?私、高校生の時でしたが、ジュリー・アンドリュースが「ドーナッツ」って歌っていないのに気づいて、歌詞を取り寄せて調べたんですよ。そしたら、ぜんぜん違うことがわかったんです。そりゃそうですよ。英語に「ミ・はみんなのミ」なんて、あるはずないんですから。
 原詩を見ると手抜きがあるのも発見しました。「ラ」です。直訳すると、「ラはソの次よ」なんです。なんとかして「La」を見つけてほしかったですね。そこいくと、日本語は豊かなこと。ラッパのラだけでなく、いろいろありますからね。
2020.08.17「つながる」
 楽園モーリシャスの海を油だらけにしてしまったきっかけは、「WiFi」をつなごうとした船長の愚行でした。先日、私のLINEもすべてが解除され、みなさんにご迷惑をおかけしたので、つながることの大切さはよくわかります。何人もいない船内で、何日も航海していれば、陸と交信したいとの欲求は高まってくるでしょう。ただ、気持ちはわかりますが、その代償はあまりにも大き過ぎました。
 人間は「つながる」ことが大切です。多くの人と「つながる」ことで、多くの人から支えられていると感じることができます。ただ、それが逆に人間関係の悩みも発生させるわけです。
 聖書では、私たちがつながりの中心に置くのは神でなければならないことが書かれてあります。この関係がメインであれば、他のつながりでギスギスしたり、うまくいかなくなった時も、不安にはなりません。
 アブラハムは信仰の父と言われていますが、それは、自分の故郷での保証された暮らしや血縁の関係以上に、神との関係を最優先したからです。神とのつながりが生きていることによって、どこに行っても、またどんな状況に陥っても、彼は前を向いてぶれずに歩めました。
 誰ではなく、まず私たちのいのちを生かす、神さまとつながっていきましょう。
2020.08.10「三角数」
 聖書には意味のある数字と、こじつけのように解釈してはいけない数字とがあります。
 今週の「4つの種」の箇所で、子どもたちに、なぜ主イエスが成長の数値を「100倍、60倍、30倍」と表現されたのか解説しました。
 アブラハムがロトを取りなす場面で「5」「10」を区切りとしていたことがわかります。つまり、すでに十進法が使われていたのです。十進法はBC3000年頃にエジプトで使われ始めたようですし、もともとアブラハムはメソポタミア出身ですから、素養はあったかも知れません。そのような背景を踏まえた上で、たとえば、5倍、10倍、20倍とかではなく、なぜこの数字だったのか、興味を持ったのです。
 しばらく考えて思い浮かんだのが「三角数」でした。ボーリングのピンの並び、あれが三角数のイメージです。底辺が2であるなら、正三角形を作るために3つ必要になりますよね。同様に、底辺を3にするなら6つです。そして一辺が4になれば10です。3、6、10に根拠らしきものがあったわけです。
 三角数の「3」は聖書では神を示す数字であることが知られていますので、神が関与されてはじめて成長するのだという意味があるのかもしれません。「10」(倍)はしばし人間の生活に現れる完全さを示すので、神が保証した上で、人間に与える完全な結実、そのような受け取り方もできなくはないのです。
2020.08.03 「秋の雨」
 立秋が過ぎてから、猛暑がやってきました。本格的な夏が到来したと言えなくもないですが、立秋が過ぎれば、どんなに暑くても「盛夏」「暑中」ではなく、「残暑」となります。四季がはっきりしている日本ですが、温暖化の影響で節季もねじれてしまっています。
 聖書の舞台、パレスチナは4~10月頃まで「乾季」で、その終わりを告げるのが「先の雨」です。短い「雨季」ですが、乾燥しきった大地を潤すので、民たちは一斉に自分の畑を耕し、種をまくのです。冬に時々お湿りがあり、2月後半に実りを促進する雨が降ります。これが「後の雨(春の雨)」です(申命記11:14など)。ただ、決して「日本の秋」をイメージしてはいけません。ただ季節の移り変わりの名称だけで、情緒を感じるような概念はありません。
 主イエスが登場すると、「秋の雨」「春の雨」の受け取り方に変化が生じます。ヤコブの手紙5:7に「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます」とありますが、前後を読むと、「主が来られる時まで忍耐しなさい」とのたとえとして、使われるようになります。
 つまり、主イエスの到来によって「秋の雨」が降ったが、再び主イエスが来られる「再臨(春の雨)」の収穫を待ち望みながら、忍耐して成長していこうとの勧めの言葉となるのです。
2020.07.27 「臨終洗礼」
 カトリックで「臨終洗礼」をしていると聞き、先日の「死者に洗礼を施してもらいたい」との問い合わせを思い出して、「ああそうか」と合点しました。私も初めて聞きましたので、近年、行いはじめたものでしょう。
 プロテスタントの秘蹟は洗礼と聖餐の2つですが、カトリックは7つを定めています。その中の「堅信」は、自分の意志で信仰告白し、受洗することですが、これは乳幼児の死亡率が高かった時代、親の意思で洗礼を受けさせ、永遠の命を保証した「幼児洗礼」が存在するからです。住民登録の代わりでもありましたが、聖書を根拠にしているとは言えず、人間の感情を優先した儀式であると言えます。
 今回の場合、死んだ方をお世話していたカトリック信者の要請に応じた司祭が、授洗するとの話を聞いたのですが、幼児洗礼ならまだしも、死者に洗礼など、曲解にもほどがあります。聖書より、人間が作り出した儀式を重視しているからでしょう。
 感情的には十分に理解できますが、聖書を無視するような行為は許されません。洗礼を受けた受けないではない、召された魂は主にお任せし、平安と慰めを祈るにとどめるべきです。
 イエス之御霊教団は「身代わり洗礼」といって、何十年も前に死んだ人に洗礼を施しています。今回の「臨終洗礼」に通じる異端行為です。
2020.07.21 「北前船」
 ヨナが活躍していた当時、「ヤッファに下ると、タルシシュ行きの船が見つかった」(1:3)と記述されているとおり、地中海にはいくつかの航路が開拓されていました。だいたいBC1200年頃から始まったとの説が主流ですが、ソロモン王の在位中(BC961~922)には貿易船が盛んに行き来していたことがわかりますので、300年の間で造船技術なども追いついてきたのでしょう。
 ソロモンは「タルシシュの船団がヒラムの船団と共にあった」(列王上10:22)とあって、海外貿易にも力を入れていたようです。特に、「タルシシュの船団」は3年に一度戻って来ていたのですが、貿易品を調べると、様々なところに寄港しながら商売をし、その土地のもの、またはそこで手に入れたものを積み込んでいたことがわかります。まさにイスラエル版の「北前船」です。
 タルシシュは金属を産出するスペイン南部の町だと言われており、そうだとすると地中海の出入り口ジブラルタル海峡付近。冬場はかなりの強風が吹くため、どこかで冬を越し、地中海をぐるっと回って商売をしていたのです。タルシシュの船団はツロが母港でしたが、実は、ソロモン、南の紅海に面したエツヨン・ゲベルを母港とした船団も編成していて、こっちはシェバ(イエメン)、アラビア、そしてインドへと向わせていたようです。
2020.07.14 「氾濫」
 奈良女子大の教授だった「清水氾(しみず・ひろむ)」先生は、KGK(キリスト者学生会)を熱心に指導されていたこともあり、何度か、話をうかがう機会がありました。
 ある時、自己紹介の中で、「時々『清水犯』と書いてくる失礼なやつがいる」とぼやいておられました。「氾」のツクリは「布をかぶせる」様子を表し、「犯」の場合はケモノヘン、これは通常、野犬を指すのですが、町に入ってきて危険だと思われた野犬に布をかぶせて捕まえる行為が「犯」、そこから、テリトリー、またはルールを犯す行為に用いられるようになりました。「氾」は水(サンズイ)がおおう様子です。清水先生の親は世をおおうようなひろい人物になってもらいたいと思ったんでしょうか。
 各地で豪雨災害の報道がなされていますが、この地域も例外ではありません。昨年10月にはあと何センチというところまで境川が増水していますので、心配です。
 水が集まって流れくだる様子はしばしば聖書に登場してきます。彼らにとっての「川」は、雨期だけに出現する自然現象であり、常に洪水を伴うものでした。圧倒的な力を持って迫ってくる流れに恐怖を覚えたはずです。ですから、聖書に出てくる「水」「川」の多くが、神への畏怖を生じるほどの偉大な力を表現する道具として用いられているのです。
2020.07.07 「賄賂」
 コロナ騒動の渦中にあって、うやむやにされそうになっているのが河井事件です。選挙に勝つために100人もの地元首長、議員にお金をばらまいていたのですから驚きです。河井議員はもちろんですが、私も含め、多くの人は、受け取ったすべての人が辞職すべきだと考えているでしょう。ところが、所属の自治体はまちまちでも100名の人がいっぺんにやめるとなると行政が立ちゆかなくなる。そこで、「すぐに返したわけだし、やめなくてもいいんじゃないの」との助けの声に後押しされるように、そのまま職務を続けようとしている人が多いのです。ここにきて集中豪雨被害にも目がいってしまい、世論の声は鈍いままです。しっかりと解決してもらいたいものです。
 口語訳では戒めを説いている中に「賄賂」が登場しますが(出23:8など)、ほかは「まいない」となっています。これは「おおいかくす」という意味ですが、隠すように密かに渡す「賄賂」の意味も持つようになったのでしょう。協会共同訳で調べてみると、わかりやすいように「賄賂」と訳されていました(申命記11:17、27:25など)。同じ語であっても、列王上15:19、箴言17:8などは「贈り物」としています。
 何千年も前から賄賂に気をつけるようにと言われているのですが、今も世界中で「贈り物」が交わされています。しっかり心を守っていきましょう。
2020.07.01 「第7の月」
 あっという間に、というか、もやもやしているうちに7月になりました。子どもたちは7月いっぱい学校で、夏休みは8月1日からの3週間に減りました。子どもたちはそれを聞いても「ふーん」てなもんで、何も反応しません。いいかげん休むのも疲れているんじゃないでしょうか。
 聖書に暦、月の名前が登場するのは、出エジプトの時です。この時から神の民は暦を意識するようになります。脱出する時を第1の月(アビブ・ニサン)と呼ぶように定められ、一年を12カ月に分けることが始まりまるわけですが、おそらくこれは、出エジプトを記念して行う過越の祭、また他の記念行事を守らせるため、さらには定住し、農耕生活を始めるための準備だったと思われます。
 その中で、私たちの感覚としてはなじめませんが、第7の月に「新年祭」を実行したのです(民数記29)。どうも「7」がかぎになっているように思います。神の前にあって、完全(7)なあがないを受け、新しく歩み始めるということかも知れません。ただ、新年よりも過越や仮庵のほうが重要な祭でしたので、その後の記述はあまり見られません。ちなみに第1の月は太陽暦で3~4月、第7の月は10月くらいになります。
 日々新たにされていく私たちにとっては、毎日が新年ですかね。
2020.06.22 「五月闇」
 ちょうど夏至にあたる21日、部分皆既日食がありましたが、曇って観測できませんでした。梅雨の時期は毎日がどんよりとしていて、気分も晴れない、なんて思っていませんか。
 「夏は来ぬ」の中に、「五月闇 蛍飛びかい」という歌詞が出てきます。梅雨の夜の暗さの中に、蛍の光が浮き上がるように見える幻想的な光景をよんでいますが、五月闇だからこそ蛍の存在感が増すわけで、これも日本の原風景のひとつではないでしょうか。この歌の歌詞は今から100年以上前に書かれていますから、残っている方がおかしいのかも知れませんが、少しずつ日本の遺産が失われていくようで悲しいですね。
 聖書の舞台となった中東の夜は湿気がないからかも知れませんが、はっきりとした、なんの情緒も感じられない闇が訪れます。それこそ「鼻をつままれてもわからない」闇です。私はエジプトのシナイ山でそれを体験しました。周囲何百キロも町の明かりが存在せず、加えて新月でしたので、途方もない闇の中、前に歩く人だけを頼りに山に登った記憶があります。それこそはぐれたら迷います。必死だったのですが、中腹くらいでしょうか。休憩をした場所で、ふと上を見上げると、まさに満天の星。アブラハムはすごい祝福をいただいたのだなあと、ただただ驚くばかりでした。
2020.06.15 「暑い日」
 暑くなってきました。日本は水分を多く含んだ太平洋高気圧の影響で湿度も高くなるため、その過酷さが世界で有名になっています。今年はマスク着用の機会も多くなりますので、ぜひ熱中症などにはご注意ください。
 聖書の舞台であるパレスチナは「暑い」との印象をもたれますが、エルサレムなどは雪が降ることがあるので、一様に暑いわけではありません。エルサレムあたりから北部は比較的雨が多い地中海性気候、気温変動もこのへんと同じぐらいです。砂漠が大半の南部は高温が続き、雨が降りません。一番の現地との違いは「乾燥」していることです。
 紅海に面するエイラトなどは40度は当たり前、シナイ半島に行けばもっと暑くなります。そんな過酷な中、旅したのですから、神の民たちも大変な思いをしたでしょう。ところが、だれも倒れなかったのです。詩編121編に「主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない」とあるのですが、ここにヒントがあります。
 日陰の恩恵があまりない日本と違い、40度を超える暑さでも、乾燥しているため日陰にはいると本当に涼しいのです。外国の人が苦戦するのはここにあります。神さまは、日陰を作るようにして民たちの健康を支えられたのです。
2020.06.08 「集まる」
 久しぶりに皆さんと礼拝をささげることができました。ただ、子どもたちにはもう1週だけ自宅待機をしてもらいます。ごめんなさい。
 対策として打ち出されているように、出席者については、検温、マスク着用、アルコール消毒をしていただいた上で、間隔を置いて座っていただきました。
 説教時に申し上げたのですが、今回、ビデオカメラに向かって語る「孤独の戦い」を味わったことで、あらためて説教の御用は、出席者の祈りに支えられているのだということがわかりました。皆さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
 ユダヤ教の会堂を「シナゴグ」と呼ぶのをご存じでしょうか。ギリシャ語に「スナ」がついていると、だいたい「集まる」系の言葉になります。
 国が滅び、外国へ強制移住させられた民たちは、神殿での礼拝ができなくなりました。そこで家庭集会のよう始まったのが「シナゴグ」、集会所です。成人男子10名が集まると、その中の一人が御言葉を読み、勧めの言葉を語り、また祈りをささげていました。主イエスの時代にも引き継がれていましたので、新約聖書にも時々会堂が登場します。主イエスがよく行かれたのはカファルナウム(口語訳カペナウム)にある会堂でした。
2020.06.01 「飢饉」
 バナナが品薄だそうです。主流のフィリピン産については、もともと天候不順で収穫量が減っていたのだそうですが、そのところにもってきて、コロナウイルス感染拡大の影響を受け、流通が滞り、南米産も入らなくなっているそうです。
 もともと日本の食料品は外国からの輸入に頼っています。もし、気候変動などによって世界規模の飢饉が起こった場合には、自国が苦しくなるのに輸出することはあり得ません。つい最近まで起こっていたように「マスク」の抱え込みなどが起こるわけです。アメリカなどはあからさまでしたよね。ですから、そうなったら、日本がいち早く食糧危機がおとずれるとされています。ですから、後継者の育成も含め、農業従事者が続けていけるような政策をとって、自給率を高めていく努力をしなければなりません。
 聖書に飢饉が初登場するのは創世記12章、アブラハムがカナンに入ってからです。アブラハム家がいたウルは水源が豊富で食糧も安定していたと思われますが、カナンではそうはいきません。しかもネゲブ(南)へと移動したあとです。小雨乾燥の気候帯で、たびたび飢饉が起こる地域です。一帯をみまわしても、家畜に食べさせる草もまともにありつけず、エジプトに下ることを決起せざるを得ませんでした。アブラハムにとって、飢饉を味わった最初の時だったかも知れません。
2020.05.25 「エコキュート」
 今の家を建てて早くも10年が経過しました。この「10年」が、土屋家に度々ピンチをもたらしています。最初は2年前の給湯器でした。お湯が出なくなり、とにかく結構はらって応急処置をしてもらいました。次にIHの調理台。これは全取っ替えでした。そしてテレビがだめになり、エアコンもいかれてしまいました。どの時も、販売の人が「10年ですからね」と、言うわけです。そして5月17日のこと。お風呂に入ろうとしたら、給湯器にたまっているはずのお湯がゼロです。驚いて外のエコキュートをのぞいてみると、お湯が漏れ続けています。あわてて水道栓をしめ、電源を切ったのですが、その晩からお湯なしの生活になってしまったのです。
 修理屋を呼んでもらちがあかず、結局、買い換えることになりました。早くても2週間と言われ、「どうするんだぁ」という状態になりました。業者が水道管を応急処置してくれて、今はなんとかお湯が使えますが、それまでの6日間、やかんでお湯を沸かしながら入浴する毎日でした。この状態で、工事まであと1週間は待たなければなりません。自粛中ですが、温泉に入りたくなってしまいます。
 ところで、聖書の中で、最初に温泉を発見した人、知っていますか。残念ながら協会共同訳では「泉」と訳されてしまったのですが、「アナ」という人です(創世記36:24)。調べてみてください。気持ちよかったろうな。
2020.05.18 「引っ越し」
 長男一家が茨城から相模原に引っ越してきました。これからは理事長の下、スカーラの働きを担ってもらいます。よろしくお願いいたします。
 『めぐみ』の特集でも取り上げましたが、アブラハムの引っ越しは、ただの移住ではなく、これからの人生をすべて神さまに委ねる決意表明としての行動でした。家財道具いっさいを全部まとめ、近所の人たちに「お世話になりました」とあいさつをすませた上で出発していたわけですが、その時、本人はもちろん、家族の誰ひとり、どこに行くのかわからなかったのですから、不思議な引っ越しです。
 私はヘブライ人への手紙11:8に記されている「アブラハムは…出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました」との御言葉に初めてふれた時、「かっこいいなあ」と思いました。確かに、冒険の要素はあるかも知れませんが、アブラハムは、この神さまなら間違いないとの確信を持って、出て行ったわけですし、神さまはそのとおりアブラハムを祝福されました。
 新聖歌に「うしろの橋をば 焼き捨てし今 十字架を担いて 進みに進まん」(400)とあります。私たちはそれまでの生活に心奪われることがあってはなりません。アブラハムはすべてを捨てて、これしかない、との決断をして「どこに行くのかわからない」引っ越し先に向かったのです。
2020.05.11 「強風」
 5月は強風の日が多くなります。昔、この付近は今ほど家が建っていませんから、うっかり窓を開けておくと、家中が砂まみれになったそうです。わが家の近くには広場や畑が残っていますので、必ず閉めておくようにと念を押しています。強い時には家が揺れるほどですが、ビルの間を抜ける時などは前に進むことができない日もあります。先日は、自転車が押し戻される経験をし、冷や汗をかきました。
 聖書の舞台となったパレスチナは所々にオアシスはあるものの、基本的に荒野です。ほとんどの山は赤茶けており、平地も雑草さえありません。
 私がイスラエル旅行に行った時、ダビデが羊を飼っていたであろう場所に行きましたが、お世辞にも「おー牧場はみどり~」などと歌えるような場所ではありませんでした。ちょこちょこ草が生えている程度です。ところが、ダビデはそこで「緑豊かな場所に私たちを導いてくれる」と喜んでいたのですから、日本とは格段に環境が違うことがわかります。
 そんなところに強い風が吹いたら、小石が混ざる砂嵐になります。目も開けられないし、息もできません。隠れる場所もないので、うつ伏せになるしかありませんでした。 神は嵐の中からヨブに語られました。高ぶりを指摘されたヨブは、心身共にへりくだるしかない状況に追い詰められたわけです(38:140:6)
2020.05.04 「動画」
 5月10日からYouTubeを利用しての礼拝に切り替えさせていただきます。おそらくこのような機会がなければ、礼拝の様子を録画し、みなさんのご自宅で見ていただくことなど考えなかったでしょう。当初から、何人かの方に、「動画にしたらどうか」と提案されていたものの、正直、恥ずかしいですし、「土屋の顔しか出ないのに、みんなあきちゃうよ」とか言っておりましたが、決断をいたしました。
 なれるため、また手順を確認するために「予告」の動画を作ったのですが、再生回数を見てびっくりしました。3日間で100回を超えているんです。おそらく皆さんがご家族やお友達に通知くださっているからでしょう。よい伝道の機会にもなっているのだと、あらためて神さまのなされることはいつもすごいなあと思った次第です。
 チャンネル登録をすると、いつでも過去の動画を見ることができますので、ぜひお願いします。
 神さまはメッセージを発信する際、言葉を預ける人物を選び、その人に神の言葉を語りました。そしてそれを忠実に語ったのが「預言者」です。時折、神さまが「映像」を見せ、それを語るように指示されることがありますが、それを「幻」「黙示」と言います。ぼんやりしているのではなく、はっきりと神さまの御心を知ることができたはずです。
 動画も用いられることを信じます。
2020.04.20 「ストレス」
 定期的に皮膚科にかかっていて、先日、覚悟を決めて相模原協同病院に向かいました。病院の入口では消毒だけではなく、すべての人を対象に検温があります。耳式体温計だったのですが、最初に計ってもらった時、「あれ?」と言われてもう一度試されました。そして、その後、「ちょっとこちらにきてくださいますか」と言うんですよ。「なんかまずいことになったか」とヒヤヒヤしたのですが、「ちょっと数値が出てこないので、こちらでお願いします」と普通の体温計を渡され、「なんだよ、驚かすなよ!」でした。でも、協同病院は感染者が出た病院ですし、中核病院なので来院者数も多く、待っている時間の長いこと長いこと。でも、私がそこにいたのは1時間程度、それでもストレスを感じましたから、医療従事者の方のストレスは相当だろうなと思いました。病気と直接戦っておられる多くの医療関係者の方々のために、さらに深く祈らせていただきます。
 感染者の多いイタリアで、病院の要請を受けた日本人バイオリニストがその屋上で演奏をしたとの記事を見ました。多くの方々が慰めを受けたでしょう。
 サウルがどのような病気だったかははっきりわかりませんが、たて琴の上手だった少年ダビデが呼ばれます(サムエル上16:17~)。サウルは大いにいやされたとありました。クリスチャンのストレス解消は祈り、そして賛美ですね。
2020.04.13 「復活2」
 主イエスさまは、私たちを救うためにこの世においでくださったお方です。覚えておいていただきたいのは、「救い」というのは、そのご生涯、つまり「降誕」「十字架」「復活・昇天」「聖霊降臨」、最後の「再臨」すべてが含まれているもので、何か一つでも欠けてはかけるならば、成り立ちません。
 生涯と申し上げましたが、イエスさまは神さまですから、もちろん寿命はなく、永遠の御方です。ただ、区切りごとに「姿」を変えておられるので、時々誤解をされてしまいます。そのつど、深いご目的をもって、「その姿」で接してくださいます。
 人間のあがないのために、約30年に限って肉体をお持ちになっています。そして死なれた後、復活されました。その復活されたことを人々に示すために、「復活体」というべきお姿で40日間を過ごされています。「苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1:3)とあるように、肉体をもって宣教された時と変わらず、神の国について宣べ伝えておられました。ただ違ったのは「肉体」でなく「復活体」であったことだけです。復活体だったのは復活されたことを示すためでもありました。
 人間には疑いの心がわいてきます。だから、復活したのだという事実を確認させるためのお姿で現れてくださったのでした。
2020.04.06 「復活」
 私は「よみがえり」という言葉にこだわりがあります(ほかにもあるのですが)。ワープロで変換すると、「蘇る」と「甦る」が出てきますね。
 教案誌などを長く編集してきたので、他の牧師たちの原稿に多くふれてきたのですが、「わかって使っているのか」と疑いたくなるようなことも多く、「預言者」が「予言者」になっていたりすると、ほんとうにがっかりしたものです。
 「蘇」は取りたての「魚」や「稲穂」を「艸」に並べて売っていると、時々ピンピン跳ねたので、その様子から「息を吹き返す」との意味を持つようになりました。「蘇生」がそうです。「甦」は「更生」を一字にした漢字で、「新しくやり直す」ことを含んでいます。つまり、死んだような人生に転機があり、新しい人生をやり直すことができた時に、「甦る」を使えるでしょう。
 しかし、キリストは完全に死んだのですから、蘇ったのではありません。もちろん、人生をやり直したのでもないわけですから、この2つの漢字を使うのは不適当なのです。
 聖書で、なぜ完全に死んだことを繰り返し記しているのかわかりますか。それは「蘇生ではない」ことを示すためです。
 ざっと見ただけですが、協会共同訳は「よみがえり」ではなく、「復活」に統一しているようです。これならすっきりします。
 「ハレルヤ!主のご復活を感謝します」。
2020.03.30 「聖書再発見」
 コロナ騒ぎの中、新年度に入ります。新入生も保護者も喜び半分、いや不安の方が大きいのではないかと思います。しかし、いつまでも動揺を引きずるのではなく、神さまの守りを信じ、心機一転、新しい気持ちで臨んでいきたいと思います。
 タイミング良く、この4月から公用聖書を長年使ってきた口語訳聖書から聖書協会共同訳に替えることになりました。この機会に新しい訳を味わいながら、新しい発見をしていき、大いに恵まれたいと思います。週報も今週からすべて協会共同訳にいたします。「ヘブル人への手紙」が「ヘブライ人への手紙」、「詩篇」が「詩編」となっているのにお気づきになるはずです。書名、人名なども含め、なれるまでは違和感があるでしょうが、聖書本文の内容が変わったわけではありません。逆に意味がとおりやすい文章になっていますので、早くなじめるようにいたしましょう。
 ユダ王国の末期に登場したヨシヤ王はまっすぐな信仰の持ち主でした。彼を支えた預言者ゼパニヤらの存在も大きかったのですが、何よりも「律法の書」の発見が彼の宗教改革の推進力になりました(列王記下22:8~)。この聖書再発見により、彼の信仰もさらに深まっていったのです(同23:25)。私たちも神の御言葉のすばらしさを再発見し、ヨシヤのような信仰姿勢を持たせていただきましょう。
2020.03.23 「紫」
 スカイツリーが通常のライトアップで使っているのは「粋」の青と「雅」の紫で、この紫は「江戸紫」が採用されていると聞きました。私が好きな色は、このような古代紫です。日本の場合、草木で染めていく中で出せるようになったと思いますが、それだけに希少価値が高く、高貴な身分の人しか身につけられなくなってしまいます。ですから紫が最高位を表すシンボルカラーになっていくのです。
 考えてみると、世界の国旗で「紫」を使っている国がない!ですね。日本同様、染料が作りづらかったからです。
 さて、イエスさまは十字架にかけられる際、ローマ兵から外套を着せられています。マタイでは「赤い外套」ですが、マルコでは「紫の衣」(15:17)、ヨハネも「紫の上着」(19:2)となっています。どっちでしょう。実はこの時代、「アッキ貝」から染料を取っていました。ごく微量しか取れませんが、染めると紫紺系ではなく、赤紫に染まるのです。ですから、「赤」とも「紫」とも形容できたわけです。では、貴重な染料をふんだんに使って染めた着物をだれが持っていたのでしょうか。よく読んでみると、ヘロデが「はなやかな着物を着せて」おり、ヘロデ王の持ち物だったと考えれば、合点がいきます。
 主はイバラの冠をもかぶらされ、「王様!」ともてあそばれながら、十字架に進んでいかれたのでした。
2020.03.16 「春分」
 春分を日本のように休日にして祝う国も少なくないようです。キリスト教会では春分を直接祝いませんが、この日、正確には3月21日を基点としてイースターを決めるので、重要な日といえます。
 これは325年に開かれた「第1ニカイア公会議」で決められたのですが、この時に使っていたのが、1年を365.25日とするユリウス暦でした。今はより正確なグレゴリオ暦が使われているため、3月20日だったり、21日だったりするのですが、イースターの算出の場合には、この時に決められた3月21日に固定することになっています。イースターはその日を過ぎてから、満月を迎えた後に来る日曜日としているので、その年の満月の日によって1カ月近く違ってくるわけです。
 「なぜ春分なのか」ですが、主イエスが十字架にかかったのはユダヤで祝われていた過越祭の時でした。この過越が起こったのはニサンの月(正月)15日(出エジプト12:18)でして、これが春分の日あたりだったのです。主イエスの時代には満月の日にしていたので、それをBC45年から採用されていたユリウス暦にあてはめ、基点をニサンの月15日から、春分にして、満月を過ぎた日曜日を復活日として祝うように定めたのです。ですから、ユダヤ教で過越(ペサハ)を祝う時、キリスト教では受難週となることが多いのです。
2020.03.09 「かぶと」
 兜(かぶと)は古墳時代から存在しています。今でいう野球帽のような形でしたが、鎌倉時代以降、特に戦国時代に入り、はでな装飾をつけるようになったので、兜=戦国時代のイメージがあります。
 当然、武具ですから、存在していれば、戦いの場面に登場するはずですが、イスラエルが建国する以前には出てきません。最初に出てくるのは、ダビデとゴリアテの戦いの場面です。
 ゴリアテは青銅のかぶとをかぶって、イスラエルの前に出てきました(サム上17:5)。ペリシテ人には製鉄技術がありましたが、さすがに鉄製は重すぎたのかも知れません。対するダビデも最初は青銅のかぶとをつけるように進言されるものの、重かったために何もつけずにゴリアテの前に出て行きました。ということは、もうすでにこの時には青銅製のかぶとが出回っていたことになります。
 ヨシュアの占領時にはかぶとが出てきませんが、頭部を保護する防具は身につけていたような気がします。ギリシャ神話に出てくるヘラクレスが毛皮をかぶって戦ったとあるので、皮製だったかも知れません。
 エペソの手紙では、「救いのかぶと」(6:17)、テサロニケの手紙では「救いの望みのかぶと」(一5:8)とあります。私たちは「救い」をかぶってサタンの攻撃に立ち向かい、勝たせていただきましょう。
2020.03.03 「リース」
 車検の際に、リース契約をして新車に乗らないかと勧められました。自分の車ではなく、借りて乗るとなると、傷の心配をしたりして、ストレスを感じるのではないかと思い、迷っています。
 貸し借りは昔から自然に発生してきたと思います。聖書でも、モーセが語った神の律法に「家畜を借りて、それが傷つき、または死ぬ場合…必ずこれを償わなければならない」(出22:14)と、貸し借りについての条項があります。
 家畜だけではなく、農具なども貸し借りをしていたことがわかる箇所があります。「ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。『ああ、わが主よ、これは借りたものです』」(列王紀下6:5)。借りたおのの頭が振りかざした時にスポーンと抜けて、池の中に落ちてしまいました。弁償するには高価すぎたので、その人はあせってしまうのですが、でも、この人はその時、エリシャの指導で、預言者学校の寮を造っていたときでして、そばにいたエリシャにすぐに助けを求めることができ、おかげで、おのの頭は水の中から引き上げられ、事なきを得ています。
 新約聖書では、パウロが家を借りています。「パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで」(使徒28:30)とあるので、賃貸する行為があったわけです。ローマのことですから、不動産業も盛んだったのではないでしょうか。
2020.02.24 「スギ」
 新型コロナウィルスの陰に隠れて、スギ花粉はあまり話題にもならず、季節も終盤に入りました。
 ご存知のように、花粉アレルギーはスギだけではありません。私など春、夏、秋と違う花粉に反応するので、抗アレルギー薬は欠かせません。幸い、軽減されており、日常生活にはさほど支障なく過ごせています。
 聖書で最初に出てくるスギは、ノアの箱舟の建材だった「いとすぎ」です(創世記6:17~)。クリスマスツリーによく使われています。このいとすぎのほかにもうひとつ、エルサレムの神殿を造る際にも用いられ、聖書によく出てくるスギはレバノン杉、また香柏とも呼ばれています(列王紀上5:6など)。スギ?柏?いえ。実はマツの種類に分類されるそうです。
 いとすぎはヒノキ科イトスギ属で正真正銘のスギ。しかし、レバノン杉はマツ科ヒマラヤスギ属なのだそうです。良質な木材だったので建築、造船に重宝され、地元に莫大な富をもたらすのですが、伐採するだけで、植林しなかったために気づいたら絶滅寸前になってしまいます。これは大変と、わずかに残っている一帯を保存林とし、保護してきた結果、1998年、世界遺産に登録されました。場所はレバノン。レバノンの国旗を調べてみてください。中央に描かれているのがレバノン杉です。
2020.02.17 「入国審査」
 コロナウィルスも、相模原中央病院の医療従事者に感染したことがわかり、対岸の火事ではなくなりました。地元の病院ですから、通院していた人、そしてその家族と、どのようなかたちで感染していくか想像できません。お互い、人混みに出る際にはマスクをつけるなどし、万全を期したいと思います。
 すでに中国からの入国は制限され、入国審査が厳しくなっていますが、外国に入国する場合は、自分の国籍を明らかにし、許可を受けて入国することになります。
 ヨシュアが新指導者になったイスラエルは、それぞれの部族に割り当てられた領地をとっていきました。神さまから、そこにいる民たちはイスラエルがエジプトに行っている隙に住み着いてしまった人たちだから、滅ぼすようにと命じられていましたので、それを実行していきます。その勢いは住み着いていた民たちには脅威だったに違いありません。同盟を組んで戦おうとする民たちもいましたが、その中のギベオンに住んでいた民は、土着の民であることを隠し、わざと古びたかっこうをし、遠方からやってきた漂流民を装ってヨシュアの前に現れました。まんまとだまされたヨシュアは、居留の許可を与えてしまいます(ヨシュア9:3~)。
 ゴーン元会長もそうでしたが、出入国審査は、しっかりやってもらいたいですね。
2020.02.10 「感染」
 コロナウィルスの猛威はとどまるどころを知らず、オリンピックまでに終息宣言が出るだろうかとの心配もされています。先日ドラッグストアに行くと、マスクのコーナーだけ、ぽっかりとあいていました。この近所もパニックになっているようです。症状が出ない感染者がいることも防疫を難しくしている要因でしょうが、もはやパンデミック状態です。
 この「パンデミック」という語は、「パン(すべて)」+「デモス(人々)」=パンデミアとのギリシャ語から来ているので、今回、聖書のどこかにあるのではと、検索しましたが、見つかりませんでした。というのも、最初に思い当たったのが、「この男は、疫病のような人間で、世界中で騒ぎを起こしている」(使徒行伝24:5)とのパウロに対する非難の言葉だったからです。
 パウロの世界宣教で爆発的に信者が増えた結果、いわゆるユダヤ教の存続が危ぶまれる状態になりました。そこでユダヤ人大祭司アナニヤがローマ総督ペリクスに訴え、パウロを押さえ込んで撲滅を図ろうとします。しかし、時すでに遅し。もはやパンデミック、あらゆる人々に次から次へと福音が伝えられており、抑えることはできなくなっていました。
 ウィルスは押さえ込まなければなりませんが、人々を救う主イエスの福音については、さらにくまなく広がるよう祈らせていただきましょう。
2020.02.03 「議員」
 昨日、教会総会がありました。議論の場ではありません。教会がどのような活動を行ってきたかの報告をし、主が私たちの群れになしてくださったみわざを思い、感謝をささげる時あり、教会の運営に関する詳細な話し合いや決定はこの場ではなく、代表役員の牧師と教会員の互選で選ばれた6人の責任役員が担います。そのようにしなければ、刻々と変わる状況変化に対応できませんし、拘束時間も大幅に長くなってしまい、効率が良くありません。
 よく国会で聞かれる「民意」は、ひとりひとりの意見を集約したわけでなく、「国民が選んだ議員」に託されているわけで、だからこそ、いいかげんに選んではいけません。教会も組織です。パウロは弟子たちに対し、どのように運営していけば良いのかアドバイスをしており、特にその当時にあった「監督」「長老」「執事」といった役職を選ぶ際、よくその人物を吟味するように勧めています。
 そこで最も大切な資質として挙げられているのが、自分の信仰が、自分の家や周囲で歓迎されているかどうかです。口先だけでいろいろ言う事はできますが、それを自分が実行していなければ話になりません。「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか」(テモテ第一3:5)とありますが、問題を起こしている議員に教えてあげたいですね。
2020.01.27 「イチゴ」
 イチゴ狩りが各地で始まりました。この付近ですと厚木にあるのですが、ここは小規模なため、土日で取り尽くされ、金曜日あたりにならないと再開できないようです。一度、子どもたちが小さい時に、月曜日に行ってがっかりしているので、以来、私たちは小田原厚木道路の平塚インター近くにある「湘南イチゴ狩りセンター」を利用しています。圏央道を使うと30分ほどでつきます。練乳も無制限で使えるので、おすすめです。
 聖書にイチゴ、またはそれらしき食べ物を捜したのですが、残念ながら見つかりませんでした。欽定訳聖書を調べると、「mulberry」、つまり桑の実と訳されている箇所がありました。口語訳では、マツ科に属する「バルサムの木」(サム下5:23、歴代上14:14)と訳されていますので、ますます混乱してきますが、翻訳者の見解の違いです。ついでにもう一カ所、ルカ福音書17:5にでてくるマルベリー、こちらは「桑の木」と訳されています。 桑は「クワ科」、イチゴは「バラ科」なので、やはり「イチゴ」とは言えませんかね。
 すでに古代ローマ帝国時代はイチゴが栽培されていたようですし、マリヤがイチゴ好きだったとの伝説も残っています。食べていたはずなのですが。ちなみに、今のような甘さはなかったので、「薬」でもあったと言われています。
2020.01.20 「梅」
 昨日、水戸に行ってきました。 水戸と言えば偕楽園、偕楽園と言えば梅林です。こちらではつぼみも見受けられたので、少し期待をしたのですが、車窓から見える範囲では、まだまだでした。
 ご存じのように梅は冬を越してまっさきに花を咲かせるため、「春告げ草」などと呼ばれることがあります。この梅、バラ科サクラ属の木なのですが、聖書にはこの「梅」と親戚になる木がよく登場してきます。「あめんどう」です。聞き慣れないのですが、「アーモンド」と言えば、すぐにわかるでしょう。このアーモンドがバラ科サクラ属なのです。
 聖書の舞台となっているパレスチナは日本のように四季がはっきりしていないのですが、冬を越えてから最初に花を咲かすのが、あめんどう。梅が咲く感覚なので、自然、受け取り方も日本と同様で、「先見( さきみ) の花」と呼ばれます。将来起こる出来事を先に見ているようだと受け取り、神さまからの言葉を先に聞いて語る預言者に結びつけられます。
 預言者エレミヤが預言者に召し出される時、「『エレミヤよ、あなたは何を見るか』。わたしは答えた、『あめんどうの枝を見ます』。主はわたしに言われた、『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ』」(1:12) とのくだりがあります。
 梅を見ながら、来る春の暖かさを期待しましょう。
2020.01.13 「IR」
 国が法案まで作り、推し進める「IR」事業、簡単に言えば「いろいろな施設が一緒なっている娯楽地区」が、今、問題になっているのは、ショッピングモールや劇場ならまだしも、そこにカジノ設置が含まれているからなのです。安倍氏率いる自民党、創価学会が支持母体である公明党が強引に法案を通し、「カジノ」という違法賭博行為を「観光」の名目で合法化した。だから、横浜をはじめ、いくつかの自治体が賭博場を開きたいために誘致合戦を繰り広げているわけです。どれだけギャンブルが不幸を生み出しているのか、犯罪の引き金になっているのか、お金に目がくらんでしまった亡者たちには、そんなことを考える頭はありません。
 安倍自民党の、簡便な手段で経済数値だけを上げようとするもくろみと、公明党の目先だけを追うご利益主義が一致し、動き出しましたが、収賄事件が発生するなどし、現実にやる前から破綻が見え隠れし始めています。
 主イエスはそのような姿勢をたとえ戒めています。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は『倉を取りこわし、もっと大きいのを建てよう。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』と言った。すると神が彼に言われた『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる』」(ルカによる福音書12)。
 本当に大切なものを見極めてください。
2020.01.06 「けんかを売る」
 なぜトランプ大統領はこうも敵を作りたがるのでしょうか。
 サウル王から命を狙われ逃避行を続けていたダビデがパランの荒野にいた時のこと、600人ほどでしたがダビデを慕ってついてきていたけらいもいたので、彼らのためにも食料がほしかったダビデは、その土地の有力者ナバルという人物に提供を依頼しました。実は、この付近はいわゆる山賊などもおり、ダビデはことあるごとに外敵を追い払っていたので、決して厚かましい申し出ではなかったのですが、ナバルは偏屈な人で、「なに?ダビデ?そんなやつは知らねえよ(本当は助けてもらっているので、よく知っています)。だれが食いものなんかわけてやるか」、そうののしったのでした。
 ナバルの妻が機転を利かせてダビデ一行に食料提供しなければ、殺されるところでしたが、結局、彼はその出来事の10日ばかり後、死んでしまいます。
 なぜ彼は裕福なのにわずかな食料援助もせず、ダビデたちを怒らせたのでしょうか。それは自分のことしか考えていなかったからです。
 トランプ氏も同じです。「自分が有利になることだけ考えていればよい、その結果他人がどうなろうと知ったことじゃない」。そのような考え方が世界中にひろがっています。そして、私たちの身近にも起こっています。「ナバル(『おろかもの』との意味)」のような行為は、破滅しか招かないことを肝に銘じるべきです。
2020.01.01 「期待」
新年、おめでとうございます。今年も大いに神さまに期待しましょう。
 今年は私の家庭もそうなのですが、教会にもまた大きな変化がもたらされる年となります。こうした時に、大局を見ることは大切です。
 自分の固定観念にとらわれて、神さまが与えてくださったチャンスをみすみす失ってしまうことのないようにしたいと思います。
 そのためには、大きなビジョンを描いておくべきです。私はいつも驚いているのですが、神さまは私たちが忘れているような願いさえも心にとどめていてくださり、それを成就させてくださいます。もちろん、そのプロセスにおいて自分の思い描いていたような状況に陥ることもしばしばありますが、それは決して障害などではなく、必要不可欠な場面なのです。
 聖書にはたびたびそのような場面が記されています。主イエスが生まれつき目の見えない人の目をいやした時、神さまがこの人を通して栄光を表すために、目が不自由だったのだと言われています。マイナスな部分や失敗、さらには試練などを受けとめることは容易ではありませんが、そこに神さまが栄光を表してくださるためであるとするならば、その状態が「苦しみ」ではなく「期待」に変わっていくはずです。