- バタフライ効果
- エドワード・ローレンツという気象学者が、「ブラジルでの一匹の蝶のはばたきは、テキサスに竜巻を引き起こすことができるのか?」という題で講演をしました。わずかな変化やきっかけが、世界を動かすような、予測不能な力を引き起こす可能性がある、という考え方です。こうしたことは気象にとどまらず、社会現象にも当てはまるのではないかという問いかけが、「バタフライ効果」という言葉を生みだしました。
考えて見ると、日本にも「風が吹けば桶屋がもうかる」とのことわざがあります。「バタフライ効果」と同じ理屈です。
①風が吹くと舞い上がったほこりで目の病気がはやる。→目を患うことで目が不自由な人が増え、目が不自由でもできる仕事の一つとされていた三味線弾きが多くなる。→三味線の需要が高まり、製作のために欠かせない猫の皮の消費が急増する。→猫がいなくなるためネズミが増える。→多くなったネズミがいたるところに出没し、桶を始め生活雑貨をかじり始める。→かじられた桶を修理に出すため桶屋がもうかる。
荒唐無稽と思える論理ですが、起こりうる可能性もあるわけです。
NHKで放映している「映像の世紀」の新シリーズのサブタイトルが、その「バタフライエフェクト」です。私はベルリンの壁の崩壊にまつわる回を見たのですが、まさにバタフライエフェクト(バタフライ効果)だと言える逸話でした。
ご存じのように、第二次世界大戦後間もなく、世界は資本主義国と社会主義国に大きく二分され、対立関係が生み出されました。とりわけドイツ、朝鮮半島、ベトナムなどは家族をも分断され、行き来さえままならない状態になっていたのです。
この状況下、抑圧された東ドイツで生きる3人の女性がいました。将来を不安視していた物理学者のアンゲラ・メルケル、体制批判を歌にこめたニナ・ハーゲン、デモで自由を訴えた美術学生のカトリン・ハッテンハウワーです。その、それぞれの蝶の羽ばたきが、1989年、政府報道官のひとつの失言を機に共鳴し合い、ベルリンの壁崩壊というとてつもない変革を引き起こしたのです。
ダビデという少年が投げた一つの石が無敵の武将ゴリアテを倒し、圧倒的に不利だった戦いを勝利へと導きました。やがてその少年は王となります。(サムエル記上17章)。この出来事だけでなく、聖書は、立場が弱く、なきに等しい者だけではなく、身体的、社会的にハンディキャップを負った者たちの一石が大きな奇跡を起こしている記事であふれています。
神さまは私たちに「羽ばたき」を促しておられます。それはあまりにも小さい出来事かも知れません。しかし、そこに神の力が働くなら、あなたの羽ばたきがとてつもない竜巻を引き起こすことも可能なのです。
「私を強めてくださる方(神)のお陰で、私にはすべてが可能です」(フィリピの信徒への手紙第4章13節)
- 彼を知り、己を知る
- 紀元前5世紀、中国春秋時代に書かれた「孫子」という兵法書の一節に、「彼を知り、己を知れば、百戦してあやうからず」という有名な言葉があります。この言葉は、中国に留まらず、世界の人々に影響を与えており、日本では武田信玄が「孫子」を座右の銘にし、一時期ヨーロッパの大半を支配していたナポレオンなども、自分の教科書にしていたと言われています。
その言葉に続く文言は時々省かれてしまうのですが、「彼を知らずして、己を知れば、一勝一敗す。彼を知らず、己を知らざれば、戦うごとに必ずあやうし」となっています。
つまり、敵を知り、自分を知って戦えば、負けることはないけれども、もし、敵のことも知らず、また自分の能力も把握していなければ、戦うごとに危機が生じることになります。
皆さんは今までどのような人生を送られてきたでしょうか。どんなことが起こっても、動じることなく対応してきましたか。おそらく、そのような人は少ないでしょう。
人生には何が起こるか分かりません。すべてが突然です。ひとたび事が起こると、多くの人たちは、動揺し、追い詰められ、悩み苦しんで、それこそ、「戦うごとにあやうし」、ことあるごとに危機に陥ってしまうのです。なぜでしょうか。「彼を知らず、己を知らない」からです。
敗北を味わうことのない生き方をするにはどうしたらよいでしょうか。
まず「彼を知る」ことです。
では「彼」、つまり、私たちを悩ませるものとは何でしょうか。
聖書を開いてみると、私たちを悩ませるものは「世の罪」であると書かれています。
皆さんも、毎日毎日、いやなニュースを聞いておられると思いますが、それが「世の罪」です。
ただ、聖書では、凶悪な事件、出来事のような具体的な事柄を指して「世の罪」と言っているのではなく、神に反逆する心によって生まれたものが「罪」の原点であると教えています。
そして、その神に反逆する心が「淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのもの」(ガラテヤの信徒への手紙5章19~21節)など、私たちが見ている悪行を生み出すのだとしています。
そのように指摘された上で、よく自分自身を考えて見ると、それらは少なからず私たちの内にもある心の様相であろうと思うのです。
どうでしょう。気分を害されたでしょうか。しかし、それを認めずして、「自分を知る」ことはできません。自分も「世の罪」と言われる性質を持っているのだと認めることが、新しい歩み出しなのです。
つまり、神に背を向けるのではなく、神と共に歩むことによって、敵の恐ろしさも、そして自分の傲慢さも知ることができ、その結果、どのようなことが起こったとしても、微動だにせず、心に平安を保って歩むことができるのです。
「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。
それは公正を行い、慈しみを愛し へりくだって、あなたの神と共に歩むことである」(旧約聖書ミカ書第6章8節)
- 闇から光へ
- 暗く、狭い空間は誰もが苦手ではないかと思います。 かくれんぼをしていて、良い場所を見つけたと思って隠れても、オニがなかなか見つけてくれないと、逆に恐くなってしまい、耐えられずに自分の方から飛び出してしまう、なんていうこともありました。
先日、子どものテレビ番組でしたが、洞窟冒険家の方が出演し、その活動を紹介していました。彼らは奥へ奥へと入っていき、そこに何があるのかを調査しているのですが、私などは、戻ってこられなくなったら、一生外に出られなくなったらどうするんだと、余計なことを考えてしまいます。入口から伸ばしていくガイドロープのようなものはあるのでしょうが、万全とは言えません。途中には、いくつもの穴があり、また深い穴もあるでしょう。水がたまった場所は潜水しなければなりません。今までに何人もが遭難しています。実際に、狭い空間で身動きが取れなくなり、亡くなられた冒険家がおられたそうです。
聖書は、人間の悩みは、神から背を向けたことが原因だと語っています。それは、光り輝く世界に背を向けて、暗い洞窟に入っていくのと似ています。しかも、命綱をつけないで。
その闇の世界はいくつもの道が分かれており、そして落とし穴もあります。確かに、ある時にはこの世のものとは思えない美しい空間を発見するかも知れません。しかし、所詮、そこは、私たちが生きていくことのできない、死の世界なのです。持参していった道具がひとつひとつなくなり、そして灯も失われ、底知れぬ暗闇が覆う瞬間がおとずれます。子どもの頃、「今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」とつぶやく歌謡曲をきいたことがありますが、まさにその状態です。
クリスマス。ご存じのように主イエス・キリストの誕生を祝う日です。誕生日ではありません。冬至を過ぎ、これから昼の時間が増えていく、その時が一番ふさわしいとの理由で祝われるようになりました。ですから、大切なのは「その日」ではなく、その意味です。つまり、闇の力にしばられ、また闇の中を迷う者が「光」によって救われる転換点、それがクリスマスなのです。
ヨハネによる福音書に、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(1章9節)と記されています。読んでいただくとわかりますが、この「すべての人を照らすまことの光」はイエス・キリストを指し示しています。
「すべての人」とは、どんな闇に包まれている人であっても、主イエスはその人を照らし、救いをもたらすことのできるお方であるということです。
「まことの光」とは、人工的に造った物でもなく、経年変化するのでもなく、永遠に変わらず、失われずにあなたを包み続けることができる光ということです。
「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(1章5節)。 闇の世界から脱するためには、「まことの光」が必要です。主イエスは、あなたのために、まことの光としてこの世に来てくださいました。そのことを知るために祝われるのがクリスマスなのです。
今年、キャンドルの灯火を見つめながら、光へと、命へと、希望へと導いてくださる主イエス・キリストの誕生をお祝いしませんか。
- 私とつながっているなら
- 生命力を感じる季節を迎えています。
30年近く前、今の教会が建てられたばかりの時に、一本の苗木をもらいました。何も気にしないで植えたのですが、ものすごい勢いで伸び、庭木の域を超える大木になって初めて「榎」であることを知りました。
毎年枝打ちだけはしていたものの、幹はぐんぐん伸びていきます。とうとう屋根よりも高い所まで登らなければならなくなり、危険を感じたので、ある年、意を決して、切り倒してもらうべく業者に見積もりを頼みました。すると、予算をはるかに超える額です。その瞬間、「もう、自分でやるしかない!」と悲壮な覚悟をしました。
すでに10メートル以上ありましたので、一気に倒すことはできません。末端の方から少しずつ切り落としていきました。
ただ、木にしがみつきながら、作業をしていると、木の生命力が伝わってきました。その命は、ちっぽけな枝の先にまであり、つながっていれば刻々と伸びていくのです。ところが、ふと、下に目をやると、さっき切り落としたばかりの枝の葉がすでにしおれているではありませんか。「命につながっている」ということが、どれほど大切なのかがわかりました。
漫然と毎日を過ごす若い人たちに、覇気がない、意欲がない、やる気がない、活気がない。根気がないと指摘する文章を目にしたことがあります。しかし、その状態は、すべての現代人にあてはまることです。
仕事や学校に行けず、家にこもってしまい、家族以外の人との交流がない人、いや家族とも会わないで毎日を過ごしている人もいます。また、働こうとしても人間関係がうまくいかず、勉強する気があっても、先生や友だちとの関係を考えると足が向かない。引きこもりになっていなくても、ストレスをかかえ、なんとか肉体は維持して「生きている」状態でも、心はズタボロで、生きる意味も見いだせず、目標もなく「生ける屍」のようになっている、そのような人は意外に多いのです。
なぜ、人間はそのように力なく、なえ、しおれてしまうのでしょうか。 さまざまな理由はあるかも知れませんが、聖書は「命とつながっていないからだ」と言っています。 どんなものでもつながっていればいいというものではありません。信頼していた人に裏切られることもあるでしょう。当然、よくないものにつながるなら、自滅を早めることになります。
しかし、大地にしっかりと根ざした木が伸びていくように、命の根源である神、人間を造られた神につながっていなれば、あなたの心はみるみるうちに生気を取り戻していくはずです。
新約聖書ヨハネによる福音書第15章では、神と人間の関係を「ぶどうの木」に例えて、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)と教えています。
私と「つながっている」、つまり神を信じるならば、その人は神から与えられる生命力によって豊かな実を結び、「離れている」、つまり神の存在を否定し、神に背を向けて生きているならば、何もできずにしおれ、枯れていく。自分を生かすも殺すも、神とのつながり方しだいなのです。
もしあなたがあなたの中に生きる力を見いだせないなら、今、神とつながる決断をすべきではないかと思います。
- 風はみえないが
- 春になると風の強い日が増えます。うっかり窓などを開けっぱなしにしておくと、家中がじゃりじゃりしてしまいますので、5月のメイストーム時期までは注意が必要です。
さて、「風」は「凡」と「虫」で構成されている漢字です。風を受けて「はらむ」「ひろがる」との意味をもつ「凡」と、昆虫ではなくヘビの形から成立した「虫」、いわゆる生命エネルギーを表した部首を組み合わせてできています。
有名な風神雷神図屏風に描かれている「風神」をイメージされたらよいかも知れませんね。
私は俵屋宗達の作品を所蔵先の京都の建仁寺、また東京国立博物館の特別展で間近に見たことがありますが、その迫力に圧倒されました。尾形光琳や酒井抱一が模写したくなるのも無理はありません。そのような現代に残された壁画や仏像、美術工芸品などからも、人は風を生き物として見ていたことがわかります。
「見えない神さまを信じることはできません」。もしそのような疑問をお持ちなら、考えていただきたいと思います。
「風は見えないのに、風の存在を疑う人はいませんが、なぜですか」。強く吹けば吹くほどその存在感は増してきます。砂ぼこりが舞う中で、風の存在を否定し、信じないと言えば、小さな子どもまでが「吹いているでしょ」と反論するはずです。
「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物(造られたもの)を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(ローマの信徒への手紙1:20~21)
神を否定している人たちに向けた聖書の言葉です。
神は見えません。しかし、神が見えたならば、それは神ではありません。時が経つうちに朽ち、やがてなくなるからです。
被造物、つまり天地万物を造られたのは神です。「そうではない」と否定できる証拠は何一つありません。
ある写真家が冬山に登り、朝焼けの、その一瞬を撮るためにレンズを覗き続けていました。自然の中に身を置き、太陽が輝き出すまでの光景を眺めながら彼は、「神はいる」。そう確信したそうです。
また、人間のからだがどれだけ精巧に造られているのか、お気づきだと思います。驚くほど、様々な機能を兼ね備えています。
さらに、人にしか備わっていない「心」の存在。「生きる目的は何だ」と悩みながら生きているものは人間以外はいません。
それらこそ、私たちが花が舞い散るのを見て、見えない風を感じるのと同じように、見えない神の存在を示す証拠ではないでしょうか。
神を認めない生き方は、神と心がつながっていないことによって空しくなり、暗くなっていくのだとあります。
外に出て、風を感じられるとよいでしょう。
美しく変わりゆく自然を見られたらよいでしょう。
そして、謙虚になって、自分自身を見つめられるとよいでしょう。