光の中を歩もう

家族の中の孤独
 昨年亡くなられたイギリスのエリザベス女王は、一昨年、2021年のクリスマスに、「クリスマスは多くの人々にとって幸せなひとときですが、愛する人を亡くした人にとってつらい場合もあります。今年、私にはその気持ちが特に理解できます」とのメッセージを国民に向けて語り、70年以上連れ添い、その年に亡くなった夫、フィリップ殿下のことについてふれたのち、「望むようなクリスマスを祝うことができない方がおられるかもしれませんが、家族とツリーを飾り付け、クリスマスキャロルを歌って、大切な家族と幸せな時間を過ごしてください」と呼びかけました。

 いつからなのでしょう。家族という言葉が空虚なものに感じ始めました。それもそのはずです。連日のように事件として取り上げられるのは家族内で起こったことばかりです。

 子どもの非行や虐待、放置死、離婚と親権訴訟、家庭内の貧困、介護疲れ、年金の不正受給。殺人が起きたら真っ先に疑われるのが家族であり、事実、高い確率で家族が逮捕されています。家の構えは立派でも、中で何が起こっているのかだれもわかりません。

 このような時代、クリスマスや年末年始を「家族で幸せな時間」にすることは、至難の業かも知れません。

 夫婦共働きの家庭が多くなっていますが、相手が帰宅するなり「ああ、疲れた!」と言った言葉に腹を立て、「当てつけがましい!こっちだって、疲れているんだ」と反論したくなる時はないでしょうか。外で仕事をされていなくても、家事、育児、食事の支度と、忙しくしているわけですから、夫婦げんかが始まること間違いなしです。
 息子や娘はいるのかいないのか、リビングに下りて来て一緒に食事をするどころか、会話もありません。かろうじて、冷蔵庫の食材が減っていることで、「生存」を確認しているような有様。
 そして、それぞれに隠し事があり、自分勝手なことをやっている。家に一緒に住んでいても、なんの会話もなく、信頼関係もなかったとしたら、こんなさびしい家族はありません。

 しかし、残念ながら、これが多くの家庭の実情です。現代の孤独は、そばに家族がいるからこそ、深刻なのです。
 
 家族の幸せ、人間関係の祝福を願うなら、まずあたなが孤独から抜けださなければなりません。 
 有名な賛美歌に『いつくしみ深き』があります。
 私のことを「私の友」と呼んでくださるイエスは、私の憂いを取り去ってくださる
 私のことを「私の友」と呼んでくださるイエスは、私の悩みを知って、慰めてくださる
 私のことを「私の友」と呼んでくださるイエスは、いつも変わらずに私を慈しんでくださる

 あなたが倒れた時、起こしてくれる友が、あなたのそばにいることを知ってください。
 「重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書第11章28節)
バタフライ効果
 エドワード・ローレンツという気象学者が、「ブラジルでの一匹の蝶のはばたきは、テキサスに竜巻を引き起こすことができるのか?」という題で講演をしました。わずかな変化やきっかけが、世界を動かすような、予測不能な力を引き起こす可能性がある、という考え方です。こうしたことは気象にとどまらず、社会現象にも当てはまるのではないかという問いかけが、「バタフライ効果」という言葉を生みだしました。
 考えて見ると、日本にも「風が吹けば桶屋がもうかる」とのことわざがあります。「バタフライ効果」と同じ理屈です。
 ①風が吹くと舞い上がったほこりで目の病気がはやる。→目を患うことで目が不自由な人が増え、目が不自由でもできる仕事の一つとされていた三味線弾きが多くなる。→三味線の需要が高まり、製作のために欠かせない猫の皮の消費が急増する。→猫がいなくなるためネズミが増える。→多くなったネズミがいたるところに出没し、桶を始め生活雑貨をかじり始める。→かじられた桶を修理に出すため桶屋がもうかる。
 荒唐無稽と思える論理ですが、起こりうる可能性もあるわけです。

 NHKで放映している「映像の世紀」の新シリーズのサブタイトルが、その「バタフライエフェクト」です。私はベルリンの壁の崩壊にまつわる回を見たのですが、まさにバタフライエフェクト(バタフライ効果)だと言える逸話でした。
 ご存じのように、第二次世界大戦後間もなく、世界は資本主義国と社会主義国に大きく二分され、対立関係が生み出されました。とりわけドイツ、朝鮮半島、ベトナムなどは家族をも分断され、行き来さえままならない状態になっていたのです。
 この状況下、抑圧された東ドイツで生きる3人の女性がいました。将来を不安視していた物理学者のアンゲラ・メルケル、体制批判を歌にこめたニナ・ハーゲン、デモで自由を訴えた美術学生のカトリン・ハッテンハウワーです。その、それぞれの蝶の羽ばたきが、1989年、政府報道官のひとつの失言を機に共鳴し合い、ベルリンの壁崩壊というとてつもない変革を引き起こしたのです。

 ダビデという少年が投げた一つの石が無敵の武将ゴリアテを倒し、圧倒的に不利だった戦いを勝利へと導きました。やがてその少年は王となります。(サムエル記上17章)。この出来事だけでなく、聖書は、立場が弱く、なきに等しい者だけではなく、身体的、社会的にハンディキャップを負った者たちの一石が大きな奇跡を起こしている記事であふれています。

 神さまは私たちに「羽ばたき」を促しておられます。それはあまりにも小さい出来事かも知れません。しかし、そこに神の力が働くなら、あなたの羽ばたきがとてつもない竜巻を引き起こすことも可能なのです。

「私を強めてくださる方(神)のお陰で、私にはすべてが可能です」(フィリピの信徒への手紙第4章13節)
彼を知り、己を知る
 紀元前5世紀、中国春秋時代に書かれた「孫子」という兵法書の一節に、「彼を知り、己を知れば、百戦してあやうからず」という有名な言葉があります。この言葉は、中国に留まらず、世界の人々に影響を与えており、日本では武田信玄が「孫子」を座右の銘にし、一時期ヨーロッパの大半を支配していたナポレオンなども、自分の教科書にしていたと言われています。
 その言葉に続く文言は時々省かれてしまうのですが、「彼を知らずして、己を知れば、一勝一敗す。彼を知らず、己を知らざれば、戦うごとに必ずあやうし」となっています。
 つまり、敵を知り、自分を知って戦えば、負けることはないけれども、もし、敵のことも知らず、また自分の能力も把握していなければ、戦うごとに危機が生じることになります。
 
 皆さんは今までどのような人生を送られてきたでしょうか。どんなことが起こっても、動じることなく対応してきましたか。おそらく、そのような人は少ないでしょう。
 人生には何が起こるか分かりません。すべてが突然です。ひとたび事が起こると、多くの人たちは、動揺し、追い詰められ、悩み苦しんで、それこそ、「戦うごとにあやうし」、ことあるごとに危機に陥ってしまうのです。なぜでしょうか。「彼を知らず、己を知らない」からです。
 敗北を味わうことのない生き方をするにはどうしたらよいでしょうか。
 まず「彼を知る」ことです。
 では「彼」、つまり、私たちを悩ませるものとは何でしょうか。

 聖書を開いてみると、私たちを悩ませるものは「世の罪」であると書かれています。
 皆さんも、毎日毎日、いやなニュースを聞いておられると思いますが、それが「世の罪」です。
 ただ、聖書では、凶悪な事件、出来事のような具体的な事柄を指して「世の罪」と言っているのではなく、神に反逆する心によって生まれたものが「罪」の原点であると教えています。
 そして、その神に反逆する心が「淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのもの」(ガラテヤの信徒への手紙5章19~21節)など、私たちが見ている悪行を生み出すのだとしています。
 そのように指摘された上で、よく自分自身を考えて見ると、それらは少なからず私たちの内にもある心の様相であろうと思うのです。
 どうでしょう。気分を害されたでしょうか。しかし、それを認めずして、「自分を知る」ことはできません。自分も「世の罪」と言われる性質を持っているのだと認めることが、新しい歩み出しなのです。
 つまり、神に背を向けるのではなく、神と共に歩むことによって、敵の恐ろしさも、そして自分の傲慢さも知ることができ、その結果、どのようなことが起こったとしても、微動だにせず、心に平安を保って歩むことができるのです。

「人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。
それは公正を行い、慈しみを愛し へりくだって、あなたの神と共に歩むことである」(旧約聖書ミカ書第6章8節)
闇から光へ
 暗く、狭い空間は誰もが苦手ではないかと思います。 かくれんぼをしていて、良い場所を見つけたと思って隠れても、オニがなかなか見つけてくれないと、逆に恐くなってしまい、耐えられずに自分の方から飛び出してしまう、なんていうこともありました。
 先日、子どものテレビ番組でしたが、洞窟冒険家の方が出演し、その活動を紹介していました。彼らは奥へ奥へと入っていき、そこに何があるのかを調査しているのですが、私などは、戻ってこられなくなったら、一生外に出られなくなったらどうするんだと、余計なことを考えてしまいます。入口から伸ばしていくガイドロープのようなものはあるのでしょうが、万全とは言えません。途中には、いくつもの穴があり、また深い穴もあるでしょう。水がたまった場所は潜水しなければなりません。今までに何人もが遭難しています。実際に、狭い空間で身動きが取れなくなり、亡くなられた冒険家がおられたそうです。
 聖書は、人間の悩みは、神から背を向けたことが原因だと語っています。それは、光り輝く世界に背を向けて、暗い洞窟に入っていくのと似ています。しかも、命綱をつけないで。
 その闇の世界はいくつもの道が分かれており、そして落とし穴もあります。確かに、ある時にはこの世のものとは思えない美しい空間を発見するかも知れません。しかし、所詮、そこは、私たちが生きていくことのできない、死の世界なのです。持参していった道具がひとつひとつなくなり、そして灯も失われ、底知れぬ暗闇が覆う瞬間がおとずれます。子どもの頃、「今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」とつぶやく歌謡曲をきいたことがありますが、まさにその状態です。
 クリスマス。ご存じのように主イエス・キリストの誕生を祝う日です。誕生日ではありません。冬至を過ぎ、これから昼の時間が増えていく、その時が一番ふさわしいとの理由で祝われるようになりました。ですから、大切なのは「その日」ではなく、その意味です。つまり、闇の力にしばられ、また闇の中を迷う者が「光」によって救われる転換点、それがクリスマスなのです。
 ヨハネによる福音書に、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである」(1章9節)と記されています。読んでいただくとわかりますが、この「すべての人を照らすまことの光」はイエス・キリストを指し示しています。
 「すべての人」とは、どんな闇に包まれている人であっても、主イエスはその人を照らし、救いをもたらすことのできるお方であるということです。
 「まことの光」とは、人工的に造った物でもなく、経年変化するのでもなく、永遠に変わらず、失われずにあなたを包み続けることができる光ということです。
 「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(1章5節)。 闇の世界から脱するためには、「まことの光」が必要です。主イエスは、あなたのために、まことの光としてこの世に来てくださいました。そのことを知るために祝われるのがクリスマスなのです。
 今年、キャンドルの灯火を見つめながら、光へと、命へと、希望へと導いてくださる主イエス・キリストの誕生をお祝いしませんか。
私とつながっているなら
 生命力を感じる季節を迎えています。
 30年近く前、今の教会が建てられたばかりの時に、一本の苗木をもらいました。何も気にしないで植えたのですが、ものすごい勢いで伸び、庭木の域を超える大木になって初めて「榎」であることを知りました。
 毎年枝打ちだけはしていたものの、幹はぐんぐん伸びていきます。とうとう屋根よりも高い所まで登らなければならなくなり、危険を感じたので、ある年、意を決して、切り倒してもらうべく業者に見積もりを頼みました。すると、予算をはるかに超える額です。その瞬間、「もう、自分でやるしかない!」と悲壮な覚悟をしました。
 すでに10メートル以上ありましたので、一気に倒すことはできません。末端の方から少しずつ切り落としていきました。
 ただ、木にしがみつきながら、作業をしていると、木の生命力が伝わってきました。その命は、ちっぽけな枝の先にまであり、つながっていれば刻々と伸びていくのです。ところが、ふと、下に目をやると、さっき切り落としたばかりの枝の葉がすでにしおれているではありませんか。「命につながっている」ということが、どれほど大切なのかがわかりました。

 漫然と毎日を過ごす若い人たちに、覇気がない、意欲がない、やる気がない、活気がない。根気がないと指摘する文章を目にしたことがあります。しかし、その状態は、すべての現代人にあてはまることです。
 仕事や学校に行けず、家にこもってしまい、家族以外の人との交流がない人、いや家族とも会わないで毎日を過ごしている人もいます。また、働こうとしても人間関係がうまくいかず、勉強する気があっても、先生や友だちとの関係を考えると足が向かない。引きこもりになっていなくても、ストレスをかかえ、なんとか肉体は維持して「生きている」状態でも、心はズタボロで、生きる意味も見いだせず、目標もなく「生ける屍」のようになっている、そのような人は意外に多いのです。
 なぜ、人間はそのように力なく、なえ、しおれてしまうのでしょうか。 さまざまな理由はあるかも知れませんが、聖書は「命とつながっていないからだ」と言っています。 どんなものでもつながっていればいいというものではありません。信頼していた人に裏切られることもあるでしょう。当然、よくないものにつながるなら、自滅を早めることになります。
 しかし、大地にしっかりと根ざした木が伸びていくように、命の根源である神、人間を造られた神につながっていなれば、あなたの心はみるみるうちに生気を取り戻していくはずです。

 新約聖書ヨハネによる福音書第15章では、神と人間の関係を「ぶどうの木」に例えて、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)と教えています。
 私と「つながっている」、つまり神を信じるならば、その人は神から与えられる生命力によって豊かな実を結び、「離れている」、つまり神の存在を否定し、神に背を向けて生きているならば、何もできずにしおれ、枯れていく。自分を生かすも殺すも、神とのつながり方しだいなのです。  もしあなたがあなたの中に生きる力を見いだせないなら、今、神とつながる決断をすべきではないかと思います。
魂を生き返えらせる神
 毎日太陽が少しずつ近づいてくるように感じます。まだマスクも必要ですので熱もこもりがち、熱中症にはくれぐれもお気をつけください。
 それにしても、地球から太陽までの距離は平均で1億5000万キロ。車を時速100キロとばし続けても200年近くかかるほど遠いのにもかかわらず、少しでも傾けば暑くもなり、寒くもなります。ものすごいエネルギーですね。しかも、地球はその太陽と微妙な間隔を保ち続け、寒暖差をつけながら、自然を豊かに潤して、人間を生かしているのですから、神さまの創造の偉大さを感じます。

 ある時、子どもに聞かれました。「お父さん、山に登ったら太陽に近づくんだから暑くなるはずだよね。それなのに何で上に行けば行くほど寒くなるの?」。にわかに答えられず、一緒に調べることにしました。

 詳しいことは省きますが、私たちは、日光(赤外線)で地面が暖まり、徐々に熱が上の空気の層に伝わっていくことで暑さを感じています。ということは、地表より9キロも上にあるエベレストの頂上の方が暖かくなるはずですね。ところが、先ほども言ったように太陽と地球の距離は1億5000万キロです。太陽に9キロ近づいても、それは相模原から浜名湖の距離が約1センチ近くなるだけのようなもので、ほとんど条件は変わらないのだそうです。距離は無関係であることが分かりました。
 ではなぜ高くなると寒くなるのでしょう。原因は空気の濃度の違いです。山に登り始めると、空気が薄くなっていきます。標高が上がれば上がるほど空気がとどかなくなっていくわけです。例えると、最初は2枚の掛け布団を掛けて寝ていたのですが、それが1枚になり、そして毛布になり、タオルケットに変わって、最後は掛けるものがなくなる、そんな違いだといったらいいでしょうか。とにかく100メートルごとに、0.65度ずつ気温が下がると言われていますので、1000メートル登ると6.5度も下がってしまう計算ことになります。だから寒くなるわけです。

 いずれにせよ、ここは相模原。しばらく暑さを我慢しなければなりませんが、太陽はなくてはならぬものです。詩編19編には「太陽は…天の果てを出で立ち 四方の果てまで行き巡る。何一つその熱から隠れるものはない」(詩編19:8)とあり、すべての人間の体を生かす存在であることを説いています。その上で、それよりも大事なこととして、すべての人間の心を生かすのも神さまなのだと諭しています。
 「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めはまことで、無知な者を賢くする。   主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせ 主の戒めは純粋で、目を光り輝かせる。
  主への畏れは清く、いつまでも続く。 主の裁きは真実で、ことごとく正しい。
  金よりも、あまたの純金よりも好ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」
 つまり、すべての人間の心を生かす方は神であると語っています。
 もし、神さまの教えを知るならば、あなたの魂は生き返る、あなたの心が喜びで満ち溢れるのだとのメッセージです。
 神さまはあなたの心に欠かせないエネルギーを注ぎ続けています。それに気づき、神からの「熱」を受けるなら、あなたの心は力に満ちあふれるに違いありません。
風はみえないが
 春になると風の強い日が増えます。うっかり窓などを開けっぱなしにしておくと、家中がじゃりじゃりしてしまいますので、5月のメイストーム時期までは注意が必要です。

 さて、「風」は「凡」と「虫」で構成されている漢字です。風を受けて「はらむ」「ひろがる」との意味をもつ「凡」と、昆虫ではなくヘビの形から成立した「虫」、いわゆる生命エネルギーを表した部首を組み合わせてできています。
 有名な風神雷神図屏風に描かれている「風神」をイメージされたらよいかも知れませんね。
 私は俵屋宗達の作品を所蔵先の京都の建仁寺、また東京国立博物館の特別展で間近に見たことがありますが、その迫力に圧倒されました。尾形光琳や酒井抱一が模写したくなるのも無理はありません。そのような現代に残された壁画や仏像、美術工芸品などからも、人は風を生き物として見ていたことがわかります。

 「見えない神さまを信じることはできません」。もしそのような疑問をお持ちなら、考えていただきたいと思います。
 「風は見えないのに、風の存在を疑う人はいませんが、なぜですか」。強く吹けば吹くほどその存在感は増してきます。砂ぼこりが舞う中で、風の存在を否定し、信じないと言えば、小さな子どもまでが「吹いているでしょ」と反論するはずです。

 「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物(造られたもの)を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」(ローマの信徒への手紙1:20~21)
 神を否定している人たちに向けた聖書の言葉です。

 神は見えません。しかし、神が見えたならば、それは神ではありません。時が経つうちに朽ち、やがてなくなるからです。
 被造物、つまり天地万物を造られたのは神です。「そうではない」と否定できる証拠は何一つありません。
 ある写真家が冬山に登り、朝焼けの、その一瞬を撮るためにレンズを覗き続けていました。自然の中に身を置き、太陽が輝き出すまでの光景を眺めながら彼は、「神はいる」。そう確信したそうです。
 また、人間のからだがどれだけ精巧に造られているのか、お気づきだと思います。驚くほど、様々な機能を兼ね備えています。
 さらに、人にしか備わっていない「心」の存在。「生きる目的は何だ」と悩みながら生きているものは人間以外はいません。
 それらこそ、私たちが花が舞い散るのを見て、見えない風を感じるのと同じように、見えない神の存在を示す証拠ではないでしょうか。

 神を認めない生き方は、神と心がつながっていないことによって空しくなり、暗くなっていくのだとあります。
 外に出て、風を感じられるとよいでしょう。
 美しく変わりゆく自然を見られたらよいでしょう。
 そして、謙虚になって、自分自身を見つめられるとよいでしょう。
新年を迎えても
 いまだに猛威を振るう新型コロナウイルスですが、悪いことばかりではなさそうです。
 上野動物園のジャイアントパンダ、シャンシャンは2020年12月末までに中国に返還される予定でしたが、感染拡大の影響で2021年5月末までに「帰国」が延期されることになりました。

 上野動物園といえばパンダでしたから、いなくなると寂しいですね。でもご存じですか。上野動物園には意外な動物がいないんです。なんだと思いますか。ライオンです。
 動物園の目的の一つに、「種の保存」があります。実はライオンは絶滅危惧種に指定されており、東京近郊では繁殖目的のために多摩動物公園に集中させて飼育しているのだそうです。パンダやライオンだけではありません。人間による環境破壊や乱獲で、絶滅の危機に瀕している動物はたくさんいるのです。おそらく、このままでは人間までもが絶滅するかも知れません。

 新しい年を迎えると、すべてがオールクリヤになるような気がします。しかし、実際には、状況は全く変わりません。「一年の計は元旦にあり」とばかり新しい年の目標や抱負を考えても、三日坊主。長続きせず、会社や学校が始まれば、新年にもっていた期待もなくなり、変わらない状況を引きずったままの毎日に戻って行きます。いや、変わらないどころか、悪化していく可能性だってあります。何か起こりそうな期待や、改善されていきそうな予感はことごとく裏切られ、打ちのめされてしまう。
 もしもこのような方がおられたら、事は重大です。立ち上がるきっかけさえつかめずに、自分が破滅するかも知れない危機に瀕しているのです。これは深刻に受けとめるべきです。
 聖書は、あなたを含む、世界中の人々に対し、このままでは滅びに至るぞと、警告しています。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を探し求める者はいない。皆迷い出て、誰も彼も無益な者になった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らの喉は開いた墓であり 彼らは舌で人を欺き その唇の裏には蛇の毒がある。口は呪いと苦味に満ち 足は血を流そうと急ぎ その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」(ローマの信徒への手紙第3章10~18節)
 しかし、神は絶滅に向かう人間を救い、保護してくださろうと、手を差し伸べてくださいました。それは、まさに新年にあなたが期待した、「すべてが新しくなる」救いなのです。

「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(コリントの信徒への手紙二第5章17節)
 もし、あなたがキリストを信じるならば、確実に新しくなるのです。期待や予感ではありません。まちがいなく、驚くような、起死回生の「新しいものが生じる」出来事があなたにおとずれます。どうぞ、教会にお越しください。そして、キリストを知ってください。
「闇」を一掃する
 コロナ禍中、ネットショップの需要が高まったことで、偽物をつかませ、だます手口も急増しているそうです。年末に向かい、何かと物入りな時期です。ご注意ください。

 さて、「偽」という漢字は、いつわる、だます、にせもの、という意味と共に、「人のなすこと」という意味もあるようです。人が生きていく上で、「偽」はおのずから生じてくるものだと、昔の人も考えたのでしょう。つまりそれは、人間の「闇」の部分を指していると言えるかも知れません。
 自分の本心、過去の過ちなど、親しい人にも打ち明けられない自分の闇を見せたくないために「偽装」して生きている。それが人間だというのでしょう。

 確かに、古いことわざに、「いつわる者はおそる」とありますが、自分に「偽(闇)」をもつ人たちは、内心、いつかわかってしまうのではないかと、常にびくびくして、真実を避けるように生活をしています。しかし、偽りのない人は、一点のかげりもなく、堂々と生きることができます。
 ある時、雑踏で犯人を追っていた警官が、通行人に「そいつを捕まえてくれ!」と叫んだところ、あらぬ所で走り出した男がいたそうです。捕まえてみると、凶悪犯罪を犯した人物であることがわかりました。その人物は、自分を捕まえに来たと思って、逃げ出したとのことです。
 後日談がありまして、その犯人、「ああ、よかった。今日から安心して眠れる」と言ったそうです。

 私は、信仰をもつ以前、さまざまな悪事に手を出していました。時には快感を覚えることさえありましたが、同時に、破滅的な生き方をしている自分をも感じ、そして、「いつか、ばれるかもない」とびくびくしていたことも事実です。

 そのような日々を過ごしていた17歳の時、「キリスト」を知りました。
 そして、聖書にふれる中で、自分の心を支配していた「偽」が、人を傷つけ、自分を傷つけるような、破滅的な生き方の原因であったことがわかったのです。暗い部屋に光が差し込むと、それまで見えなかった部屋のほこりに気がつきますが、そのような体験でした。
 「偽」を捨て、「真」に生きる選択をした時、私の中に「光」がさし、「闇」がなくなっていく経験をしました。「偽装」しないで生きる、本当の心の自由を手に入れることができたのです。

その時、曙のようにあなたの光は輝き出し あなたの傷は速やかに癒やされる。…
その時、あなたが呼べば主は応え あなたが助けを求めて叫べば
『私はここにいる』と言われる。
もしあなたの中から
軛(くびき)を負わせることや指をさすこと 悪事を語ることを取り去るなら
飢えている人に心を配り 苦しむ者の願いを満たすなら
闇の中にあなたの光が昇り あなたの暗闇は真昼のようになる
(イザヤ書58章8~10節)

 キリストの救いの光は、クリスマスを覚えるこの日々にも、あなたに差し込もうとしています。
 心を開き、その光を受けるなら、私の心に変化が起こったように、あなたにも光が差し込み、朝焼けのようなまぶしい輝きを放って、あなたの心にある「闇」を消し去ってくれことでしょう。それこそが、「偽装」を重ねた自分から解放される時なのです。
最高の出会い
 私の父は船大工でして、たまにあるヨットの試走に同乗することがありました。
 ある年の夏、神奈川県の三浦沖を走っていると、一隻のクルーザーが急接近し、アッという間にぶつかってしまいました。幸い両方とも船体には異常がなかったのですが、それよりも、驚いたのはぶつかった直後でした。クルーザーから申し訳なさそうに顔を出してきたのが、何と当時人気絶頂だった歌手の坂本九さんだったのです。
 間近でスターを見ることができただけではなく、声もかけられ、私は興奮状態に陥ってしまいました。50年も前のことなのに、「ごめんねー」と手を振りながらさわやかに去っていった彼の声が今でも耳に残っているほどですから、相当なものだったのでしょう。その翌日から友人たちに、「九ちゃんに会った」と自慢しまくったのは言うまでもありません。

 人生にはいろいろな出会いがあります。そして、どんな人に出会うかによってずいぶん生き方も違ってくるものです。

 あなたは自分の生き方を決定づけるような出会いを経験したことがおありでしょうか。
 聖書にザアカイという人物が登場します。この人は税金の取り立て人で、不正に取り立てていたこともあり、まわりの人に徹底的に嫌われていました。そして何よりも孤独で寂しい人だったのです。
 ある日、そんな彼は、「苦しむ人々を救ってくれる」とうわさされていた主イエスが自分の住んでいるエリコに来るとのうわさを耳にします。通りに出てみるとすでに人垣ができており、背の低かった彼は、しかたなく木の上にのぼって「高みの見物」を決め込みました。
 しばらくすると、主イエスが歩いてこられました。ちょうどザアカイが見下ろせるところに来た時です。主イエスは立ち止まられると、なんと、その上にいたザアカイに向かって、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている」(ルカによる福音書第19章5節)と声をかけられたではありませんか。
 ザアカイの頭は混乱したはずです。自分に声をかけるような人もいなかったわけですし、まして家に泊まるなど、考えも及びませんでした。なにより、なぜ自分の名前を知っているんだと思ったでしょう。とにかくザアカイは驚きましたが、同時に、この言葉に今まで味わったことのないあたたかさを感じました。そして、このことで、愛されたことのなかった彼の心の中に変化が起き、渇きが潤うように喜びがあふれてきたのです。
 その後の彼の生き方は、この時の主イエスとの出会いによって、180度変わってしまいます。

 主イエスは言っておられます。「わたしは、このような失われたものを捜し出して救うために来たのである」(ルカによる福音書第19章10節)。

 あなたはザアカイのように孤独ではありませんか。あたたかさに飢えていないでしょうか。
 そのような、ザアカイのように「遠くからながめているような」あなたのもとにも、主イエスは来られ、声をかけられます。
 「急いでおりてきなさい。そして、私の愛を受けてください。あなたの人生を喜びで満たしたいのです」
希望を捨てるな
 自粛が続く中で、見えない牢獄の中に閉じ込められているような錯覚さえ感じます。

 人は、このような状況におかれた時、何を考えるのでしょうか。
 仕事や学業に支障をきたし、計画していたことが無残にも砕かれる。そのような現実を見たら、誰もがうなだれてしまいます。
 しかし、あなたはこのままでよいのですか。

 精神分析学者ヴィクトール・E・フランクルは、第二次世界大戦時にアウシュヴィッツ強制収容所に収監されたユダヤ人です。彼は過酷な体験を強いられながらも、奇跡的に生還し、後に『夜と霧』を著しました。
 彼は著書の中で、なんとかしのいで、生きるチャンスをつかんだ人と、亡くなった人の違い、簡単に言うならば、「生」と「死」を分けたものが何かについて触れています。
 「未来を信じ、希望を抱いていたか」です。それを失った人は、精神的なよりどころを失い、自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのです。

 たとえば、1944年のクリスマスから新年にかけて、驚くほど多くの人が亡くなったそうです。どういうわけかその年の数カ月前から、まことしやかに「クリスマスには休暇が出て、帰宅できる」とのうわさが収容所内に広まっていきました。ところがそのクリスマス、そして新年が過ぎても何も起こりません。期待が裏切られていく中で、多くの者たちがその結果に落胆し、力尽きていったのです。
 フランクルは、「希望を見失わなかった者は生きた」と語っています。

 聖書に、38年もの間、病気がなおることを望んでいた人の話が出てきます(ヨハネによる福音書第5章)。

 ベトザタの池の周りには多くの病人がいました。「池の水が動いた時、真っ先に入った者はなおる」奇跡の池でした。ところが彼は自分で動くことができません。どんどん他の者がなおっていくのをただじっと見るしかなかったのです。
 そのような絶望的とも思える極限状態にいたこの病人ですが、しかし彼は、いつかなおるかもしれないという望みを捨てませんでした。

 そして38年目。出会ったのが主イエスです。
 主は「その人が横たわっているのを見」「長い間病気であるのを知って」、声をかけられました。

 「良くなりたいか」。

 主イエスは、この病人の心に、消えかかりそうな、しかし、それでもともし続けられている希望を見てくださいました。その希望がどんなに小さく、心の片隅に押し込まれたものであっても、主イエスはそれを見、それを知り、そして、無限の愛がこめられた言葉をかけられたのです。
 
 どうぞ、現実を見てあきらめないでください。あなたが「良くなりたい」なら、どうか希望を捨てないでください。
 なぜなら、主イエスはあなたのもとに歩み寄られるからです。そしてあなたに「良くなりたいか」と声をかけようとしてくださっているからです。

 あなたが主イエスによっていやされますように。
メメント・モリ
 「メメント・モリ(memento mori・死を思え)」。この言葉が人々に重くのしかかったのは、「黒死病(ペスト)」がパンデミックを起こした1300年代後半でした。 人々に「死」を身近に感じさせた時代だと言ってよいでしょう。死の恐怖から逃れるために、自らの肉体に傷をつけたり、また怪しげな薬を飲んだり、挙げ句の果てには汚水に飛び込む者も現れました。迫り来る死の恐怖にだれも太刀打ちできなかったのです。
 その後も、ペストは17世紀頃から18世紀頃まで何度か流行しています。そのたびに人々はふるえ、おののき、逃げまどっていたのでしょうか。1篇の詩を紹介しましょう。
 私のたましいよ、聞け、思い出せ  すばらしい知らせを
 主は死に勝ってよみがえられたのだ
 その勝利の旗を高く掲げ  私たちをその旗のもとに まねいておられるではないか                                (新聖歌125)
 ドイツ、ルター派の牧師であったパウル・ゲルハルトはペストとの戦いの中、主の十字架と復活の福音に堅くたって、人々の魂を御言葉によって、また賛美歌によって奮い立たせました。
 
私たちは今、世界規模で拡大している新型コロナウイルスとの戦いの中にあります。
 ある者たちは他のものを顧みず、現実逃避してライブハウス、バーやスナックをまわり、パチンコ店に列をなして、快楽に身を委ねています。
 ある者たちは死の恐怖におびえ、一歩も出ることができません。
 感染者は白い目で見られながら、またその激しい痛みを伴う中懸命に生きようとしてあえいでいるのです。
 これが「死」を身近に感じた時の人間の本性です。これが人間の罪の姿なのです。
 もし、このような状況にとどまるならば、私たちは「肉体の死」を迎える前に、「心」が滅びを迎えてしまいます。

 「メメント・モリ」。この言葉をキリスト教的に受けとめるならば、その次に来る言葉が力強く加えられます。「死を思え そして主イエスがその死に勝利したことを思い出せ」。
 主イエスを信じる者は、キリストが死に勝ってよみがえった、その力をもって、死に勝つことができます。「死なない」ということではありません。「死の恐怖に打ち勝てる」のです。そのことによって、うろたえることなく、破滅的な生き方をするでもなく、また死に臨んでも動揺することなく、今を生きることができるようにされるのです。

 イースター(復活日)はその勝利を覚える日です。あなたも、死の力から解放された毎日をお送りください。 「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません」(ローマの信徒への手紙6:8~9)

 あなたに、そして全世界の方々に主のいやしと平安がありますように。
春を満喫しよう
 漢字の「春」の元になった象形文字は、「日」が差して、「屯(根が張っていた場所)」の上に「艸(草)」が生じる様子を表しています。
 よく立春を過ぎると、「『立春』で、暦の上では『春』ですが、まだ寒い」などと言っているのを聞きますが、実は、「春」の漢字の意味から言うと、「立春」とは、「春になった」ではなく、「春の準備ができました。これから芽吹きの季節になりますよ」と解釈すべき節季なのです。

 「春」は冬の寒さから解放されるからか、よい意味で用いられる言葉が多いように思います。また卒業式や入学式のイベントも控えていますので、ドキドキ、ワクワク、期待と不安が入り交じる時期でもあります。
 今はヨボヨボに近い私も、ピカピカの一年生だった時があります。1年2組の教室で出迎えてくれた担任は三縄彦四郎というおじいちゃん先生でした。あとで知ったのですが、私たちと過ごす一年が教員生活最後の年だったのです。おそらく、先生も感慨深いものがあったに違いありません。
 その三縄先生と最初に歌ったのは「春の小川」でした。先生がひく足踏みオルガンに合わせ、一生懸命に歌いました。ですから、この歌を聴くと、いつもその時のことをなつかしく思い出します。

 「あの頃はよかったなあ」。そう思う方も多いでしょう。でも、考えてみてください。その言葉に隠されている意味は何でしょうか。
 それは、「今の自分」と比べ、何か「よくない」もの、たとえば少なくとも不満や失望があるという証拠かも知れません。
 どんな人でも、新しいステージに向かう時、期待や希望に満ちています。しかし、何日かたつうちに、自分が思い描いていたものとは違うと感じていくのです。当たり前です。それぞれの組織の生き方があり、またその中に生まれも考え方も違う様々な人がいるのですから、自分が考えているように都合良くことが運ぶわけがありません。そして、早晩、挫折を味わうのです。

  新約聖書に登場する伝道者パウロは、「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ人への手紙4:11~12)と言いました。彼の生涯は順調ではありませんでした。むしろ過酷な環境に生きた人です。ところが、そこを逃げ出さず、根を張り、花を咲かせていきました。
 彼が言う「秘訣」とは一体なんでしょうか。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(同書4:13)です。「わたしを強くしてくださる神」がパウロにあふれるばかりの陽光ならぬ力を与えていてくださったのです。

 今年もピカピカの一年生が生まれます。
 神の力を受けて根を張り、芽吹き、花を咲かせる「春」を満喫しましょう。
何が新しい?
 さめているようですが、「新しい年」といってもカレンダーをかけ直すくらいで、何も新しくなったものはありません。
 12月31日から1月1日になった瞬間、自分の借金がゼロになったり、いやだと思っている人間関係が改善されたり、悔やんでも悔やみきれない気持ちが整理できたとか、長年抱えてきた病気が治ったなどという「オールクリア」現象は、残念ながら絶対に起こらないのです。年末年始がお祭り騒ぎのように過ぎた後、何も新しくなっていない現実に、ため息をついて同じ場所に戻るだけ。そして、その年も、昨年と変わらず「今年こそはいい年でありますように」と賽銭を投げに寺社へ行くことになります。

 どのような人も、それぞれが悩んでいる不都合なことが一新できればいいと期待するのですが、ではそれは可能なのでしょうか。

 答えはYESです。

 私のPCは自作です。何週間か前から「死のブルースクリーン」と呼ばれ、突然PC画面が青くなる現象が出始めました。あまりにも頻繁に出るので、仕事になりませんし、だからといってそれを捨てて新しいPCに替えることもできません。いろいろと原因を調べましたが、にわかにはわからず、憂うつな何日かを過ごしたある時、「メモリ」といって、PC内部で作業机のような役割をする部品に問題があるのではないかと思いあたりました。そして早速、新しいものに交換したところ、まったく症状が出なくなったのです。少しグレードの良いものを入れたので、今は性能の良いPCとして快調に動いています。

 いつも不具合ばかりが起き、トラブルに巻き込まれて動かなくなる。自分の人生とだぶらせてしまう人もいるかもしれません。
 そのような時、多くの人の場合、うまくいかない原因を社会のせい、だれかのせいにしてうさばらしをするのですが、どうでしょう。自分の中にも原因があると思いませんか。

 もし、あなたの中の何かが原因で、不具合が生じ、動けなくなって困っていたなら、私のPCのように、今のあなたのすばらしさを引き出し、かつ、一新させる方法があります。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント人への第一の手紙第5章17節)との言葉が新約聖書にあります。「キリストにある」とは、「キリストを信じる」ということです。

 神が人間の造り主、つまり制作者です。ですから、あなたの不具合もすぐに改善してくださいます。「わたしを直してください」と発注をかけるようにして、信じるならば、神のキリストがあなたをたちまちに新しく造られた者としてくださるのです。

 もう同じことを繰り返す必要はありません。あなたはキリストにあって新しい者として歩めるのです。

 どうぞ教会においでください。そこがあなたの新しい人生への一歩となります。
平年並みって?
 よく天気予報などで聞かれる「平年」が、過去30年間の平均値であることを知っておられますか。
 この「平年」は、10年ごとに更新されることになっており、現在使われている平年値は「1981年~2010年」のデータが使われています。そして、2021年からは「2011年~2020年」の平均値が「平年」になります。つまり、気象予報士が「平年」と言っていても、それは直近30年のデータであって、50年、100年を積算した平均ではありません。なので、近年の温暖化現象がとらえにくくなっているとも考えられます。

 そうでなくとも、異常ととらえられても、異常が続くと異常でなくなってしまいます。つまり、100年前の「異常高温」が「平年並み」になるようなもので、何の危機意識もなく受け入れてしまうはずです。この意味で、「平年」は私たちの感覚を麻痺させている言葉だと言えるでしょう。

 私たちは、毎日のように驚くような凶悪犯罪を耳にします。しかし、10年もすれば、それらの同様の事件は新聞の片隅にも載らなくなります。
 今から40年前、予備校生が自分の両親を金属バットで殺害するという悲しい事件が起こりました。当時、社会にも衝撃を与え、連日新聞のトップで報道されていたのを覚えています。しかしどうでしょう。今、同様の事件が起きても、大きく取り上げられることはありません。なぜですか。この世の中が「またか」と受けとめるようになったからです。「異常」ではなく「平年」ととらえるようになったからなのです。
 
 私は「常識」的に生きていると言われますか?その常識は、年々凶悪犯罪が増え、倫理観も低くなっているこの世の中と歩調を同じにして生きていく中で生み出された常識ではないでしょうか。それならば、50年前には「非常識」と言われている生き方かも知れません。

 だからこそ、何を規準にして生きるかが大事なのです。時代がどんなに変わろうとも、永遠に変わらない真実な規準、神の言葉である聖書に、私たちの生き方の規準を求めていくべきです。そこには変質はありません。だから、寸分のブレもない生き方ができるのです。

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」(旧約聖書・イザヤ書第40章8節)。
 あなたの規準を見直す時が来ています。

 あなたに、神の平安がもたらされますように。
明日がある?
 私は学生時代、あまり天気予報を聞きませんでした。なにか主義主張があるのではなく、ただ面倒だったからです。自分の勘を信じて傘を持たずに出て、雨に降られた時などは、「今日は負けた」などとつぶやいたりしていました。
 私の場合はともかく、天気の予測についてはいろいろあって、例えば野球ファンは「今日広島球場が雨で中止になったから、明日は雨だ」と大胆に言ってのけ、かなりいい確率で当たったりします。動物などを見てわかる人もいるようです。
 今の天気予報は1980年6月から採用された「降水確率」を使っているので、以前のあいまいさとは数段進歩しています。データの蓄積もありますし、気象衛星を使ってのかなり詳しい予測も可能になってきました。しかしそれでも100%というわけにはいきません。

 天気よりも知りたいのが、私たちの「明日」です。しかし、少しくらいわかれば楽なのですが、予測不能ときています。明日というか、次の瞬間何が起こるのさえわかりません。

 10年ほど前に「明日がある」という歌が再ヒットしたことがあります。明日どんなことがあるかわからないけれど、がんばっていこうよと歌っています。姿勢はすばらしいと思いますが、「明日がある」とだれが保証してくれるのでしょう。私には、「また明日」とあいさつして別れた友人が、その翌日、交通事故にあって亡くなったという悲しい思い出があります。

 聖書はそんな私たちに「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブの手紙第4章14節)と言っています。

 天気ならばまだしも、毎日毎日何が起こるかわからない時を過ごし、明日を心配して神経をすりへらしている方は多いはずです。占いにはしるのがその証拠です。不確実でも何かにすがって安心を得たい気持ちはわかります。しかし、そもそも信じ切れないものに頼ったところで心が平安になるなどあるわけがありません。

 ぜひ、聖書の言葉に耳を傾けてください。そこには、神こそが私たちの「明日」を知っておられる唯一の方だと教えられています。
 確率や予測に頼る、ギャンブルのような生き方ではない、確実な生き方、それは私たちの明日を知ってくださっている神に、自分の歩む道をすべてまかせていくことです。必ず、すべての不安は解消され、自信を持って毎日を送れるようになるでしょう。

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな」(マタイによる福音書第6章33節)。
 あなたの明日を神におまかせするのです。
 あなたに、神の平安がもたらされますように。
ふるやのもり
 子どものころ住んでいた家は、よく雨もりがしました。「ポタッ ポタッ」と落ち始めると、鍋ややかんを持ってきて、雨を受けるのです。にぎやかな音がしていたものです。
 あなたは「ふるやのもり」という昔話を知っておられるでしょうか。
 昔、山里に古くて粗末な一軒の家に、おじいさんとおばあさん、そして小さな孫が住んでおり、またその家にはふつりあいのようなりっぱな馬が飼われていました。
 さて、この馬を、自分は日本一の泥棒だと思っている男と、森に住むオオカミがねらっていました。
 両者は雨の日を選んでその家に忍び込み、泥棒は天井裏で、オオカミは土間で夜の更けるのを待ちます。
 その夜、寝際に孫が聞きました。
 「この世で一番怖いものは何?」
 「人間の中じゃ、泥棒が一番だろう」とおばあさんが答えました。これを聞いた泥棒は大喜び。
 「じゃあ動物の中では?」
 「うーん。オオカミじゃろう」。今度はオオカミがにんまり。
 続けて孫が聞きました。
 「泥棒やオオカミより怖いものがある?」
 「そりゃ一番怖いのは、ふるやのもりじゃ。はようねんと、今夜あたり来るかもしれん」。
 びっくりしたのは泥棒とオオカミです。自分たちより恐れられているものがいるというのです。
 ご存知のように、ふるやのもりとは、古い家の雨もりのことですが、両者はふるやのもりが何であるかわからないまま、結局恐れが頂点に達したころ、雨が激しくなって、雨もりが始まるのです。
 おじいさんが「そら、ふるやのもりじゃ」と叫んだ途端、驚いた泥棒は土間にいたオオカミの上に落ち、オオカミは「ふるやのもり」に捕まえられたと思って逃げだし、泥棒は疾風のごとく走り出した毛むくじゃらのけものが「ふるやのもり」だと思ってそのまま逃げてしまうのです。
 ある研究者に聞いた話ですが、目隠しをさせ、「熱いぞ」といいながら氷に触れさせると、熱いと感じるだけではなく、やけどすらできることもあるといいます。
「からだを殺しても、そのあとでそれ以上何もできない者どもを恐れるな  権威ある方を恐れなさい」(ルカによる福音書第12章4~5節)とあります。
 あなたは実態がわからないことで恐怖心がつのり、恐れなくてもいいものを恐れてはいないでしょうか。
 本当に恐れるべきものは、この世のすべての権威を持っておられる神です。神を無視し、あなどっているから恐れる必要のないものを恐れるのだと聖書は言っています。
 神を権威のある方として信じ、従っていくならば、この世のすべての動き、物事の仕組みは解明され、何者をも恐れない生き方ができるのです。
雪の降る日に
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(旧約聖書 イザヤ書第1章18節)
 寒さの厳しい季節を迎えています。
 私は温暖な地域で生まれ育ったものですから、学校で「雪やこんこ あられやこんこ」と歌っていても、実感がわいてきませんでした。「ふっては ふっては ずんずんつもる」といった日は、1度もなかったからです。
 しかし、今から30年前です。所用で冬の山形に行く機会がありました。そしてそこで一面の銀世界を目の当たりにしたのです。電車の車窓からすべてが雪におおいつくされている光景を見て、その美しさに思わず息をのみました。
 この聖書の言葉にある「緋」とは鮮やかな赤ですから、どこからでも目立つ色です。
 だれもが自分の中にいやだったり、きにいらない部分、また隠したいことなどが存在します。おさえたいとは思いながらも、逆にそれらがちょくちょく顔を出し、自分の生活に支障を来しています。
 なぜ、そのようなことが起きてしまうのでしょう。神と離れた生活によってもたらされる罪が原因なのだと聖書はいいます。しかし、同時に、神さまは、「あなたの心のけがれがどれほど赤くとも、わたし(神さま)は、雪のように白くできるのだよ」とおおせになっています。
 神さまは私たちを雪のように白く輝かせることができる力をお持ちなのです。
結論!
 一大決心をして聖書を読もうと思い、開くものの、何が書いてあるのかわからず、すぐに眠気が差してくる。そんな人はおられないでしょうか。
 学生時代、課題を提出する際、本来すべての資料に目を通さなければならないのですが、「結論」だけを読んで、なんとか形にしたようなことが何度となくありました。が、実は、ありがたいことに、聖書にも「結論」があるのです。冒頭の聖句のコヘレトとは伝道者という意味ですが、このコヘレトは、私たちの大好きな「結論」を記してくれているのです。
「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。
 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(旧約聖書・コヘレトの言葉(伝道の書)第12章8~13節・新共同訳)
 なんとも心地よく、こきみよく、ありがたい言葉です。コヘレトが、様々な知恵、知識を身に積み、先人たちの言葉や第三者からのアドバイスを分析し、自分自身で実践し、体験していった事柄の結論を語ってくれています。
 断捨離(だんしゃり)という言葉をご存じでしょうか。簡単に言うと、「必要なもの以外は捨てろ」という意味です。司馬遼太郎が『街道をゆく』の『モンゴル紀行』で、遊牧民を「奇跡的なほど物欲が少ない」と評していますが、今でも彼らは余計なモノは一切持たずに生活しています。私たちにしてみれば、これは驚きだと思います。しかも、モノがあふれた国よりも、モノをもたない国の人たちのほうがはるかに幸福度が高いのです。
 私たちはいつの間にか、自分の満足のために身につけたもので身動きがとれない状態になっています。あれもこれもと身につけた結果、豊かになるどころか、逆に、「自分が何をしたいのかわからない」「自分の生き方が見いだせない」と心に迷いが生じ、悩むようになるのです。おそらくは、そのまま修正しなければ、自分の歩み方もぶれていくに違いありません。
 では人間とは、人生とは一体何なのでしょうか。その時こそ、心して「結論」を読むべきです。コヘレトは「『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて、人間の本分である」と、私たち人間の最も柱となる結論を、そのように導き出しています。神を心の柱とし、神の意志にそって生きる、それが人間本来の生き方でなければならないのです。
「徒労に賭ける」
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(新約聖書 エペソ人への手紙第3章20節)

 「徒労に賭ける」。この言葉に出会ったのは高校時代でした。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」にある1節です。赤ひげが遊郭に売られた少女たちを定期的に訪ねては診察するのですが、結局助けることも助け出すこともできない。むだであるとわかっていながら、やめることをしない。そんな自分の気持ちを珍しく弟子に吐露する場面で、「俺のしてきたことは徒労かも知れないが、俺は自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている」と言うのです。高校生だった私は、その言葉に感銘を受け、自分もそのような生き方をしたいと思いました。
 今、多くの、そして様々なボランティア活動があり、熱心に取り組んでおられる方もおいででしょう。「労多くして功少なし」。まさに徒労に賭ける姿に頭が下がります。自分の利を求める傾向が強いこの世の中で、無私の活動が、これからますます重要になってくるはずです。しかし、そこにはある種の限界がないかと思わされるのです。
 1997年、時を同じくするように、その活動において尊敬されていた2人の女性が亡くなりました。マザーテレサとダイアナです。2人とも多大な功績を残していますが、決定的に違うことがありました。ダイアナは、献身的に活動はしていましたが、自分の心は愛に飢えていました。
 自分が愛されていない、その心を満たそうとして、愛をしぼりだしていた、その姿は悲壮です。考えてみれば、自分のコップが満たされていないのに、どうしてほかの人のコップに水を注ぐことができるでしょう。それがさきほど申し上げた「ある種の限界」と感じる点です。
 マザーテレサもまた愛を注ぎ続けた人です。しかし、彼女の心はダイアナとは違い、愛に満ちていました。マザーテレサはこう言っています。「私は毎朝、礼拝の中で神に愛されていることを覚え、感謝しています。神の愛に満たされていなければ、人も愛することはできないのです」。
 その言葉は、冒頭の言葉を根拠にしているように思います。
 私たちは大いなるこころざしを持ち、この社会に貢献すべきです。しかし、それをかなえるためには、自分の力ではなく、神の力によることを知らなければなりません。
 具体的には、自分が神に愛されていることを知ることから始まります。そして、この神の愛に根ざし、神の愛にしっかりと立っていることで、初めて成し遂げることができる。そう聖書は言っています。
 私たち夫婦が里親となり20年が過ぎました。私は、クリスチャンになり、神の愛を知らなければ、他人の子を育てるなど考えることもしなかったでしょう。ただし、保護の必要な子どもたちはいくらもいるのに、家に来た子ども、児童相談所に保護されたケースはほんの一握り。彼らの行く末も考えたら、徒労と言われてもおかしくありません。
 しかし、私は自分の生涯をかけて、「徒労に賭ける」つもりです。それは、私の内に働く神の力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方、神の愛が私を満たしているからです。
「クリスマスを祝う」
 イエスがこの地上に存在した事実を否定する方がおられますが、これは愚かしいことです。
 この時期、全世界でイエス・キリストがこの地上に生まれたことを「クリスマス」と呼んで祝わっていますが、ただ騒ぐだけのイベントだったなら、とうの昔に消滅していたはずです。なぜ2000年もすたれず残ったのでしょう。

 イエスの弟子のヨハネが、「ヨハネの第一の手紙」を書いた当時、「イエスはこの世に存在しなかった」との思想がひろまり、多くの人を混乱させていました。そのためヨハネは、間違った考え方に気をつけるようにと警告し、同時に、イエス・キリストがどのような方であるか、そして、イエスが成し遂げた救いがどのようなものであるかを記して、諸教会に送ったのです。
 
 この手紙の冒頭に、ヨハネが伝えたかった「イエス」が凝縮して記されています。
 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」(ヨハネの第一の手紙1:1)です。
 
 ヨハネはまず、イエスは「初めからあったもの」であると言っています。これは天地創造以前から存在していたことを意味しているわけで、当然、それは神であることを指しています。
 主イエスは、神であられます。私たちを造ってくださったからこそ、私たちの心が壊れてもなおすことがおできになります。私たちに責任を持ってくださっている造り主です。

 次に、イエスは「聞いたもの」であるとあります。旧約聖書はその全編を通し、「あなたに救いがもたらされる」と示しています。「聞いたもの」とは、そこで語られ「聞いて」待望してきた救い主はイエスであるという意味です。
 「幸せはどこにあるのか、山の向こうかな」とヘッセが言いましたが、世に苦しみはつきません。だからこそ、人間は救いや助けを切望し、さまざまな対象を作り上げたのですが、本当の幸福をつかめませんでした。その真の救い、助けをなしとげてくださる方が主イエスです。

 3番目です。「目で見たもの」。これは愛弟子と言われたヨハネが自分自身がイエス・キリストがなされたみわざを見てきたと証言している言葉です。
 それぞれのクリスチャンたちは主を信じ、新しい生き方をしています。人を造りかえることがおできになるのは文字通り神業です。そのことを体験したクリスチャンは数知れません。その人たちが、主イエスが生きていることを証明しているのです。私も堕落した生活からイエスによって180度人生が変えられた一人です。

 最後に「よく見て手でさわったもの」とあります。もちろんヨハネは多くの時間を共に過ごした弟子ですから、イエスにふれ、またふれていただいたことでしょうが、特に、これはヨハネが十字架を仰いだその時のことを言っているのだと思われます。
 人の罪はあがない(命を代償にする)なしには消えません。そのため、神でありながら、私たちのために人となってこの地上においでになり、罪をもつ私たちの身代わりに十字架にかかって肉をさき、血を流してくださったのが主イエスです。ヨハネは、その十字架のわざを私は目撃したのだと強調し、流れくだる血にふれたと表現しているのです。人の罪をきよる方法は、このイエスの十字架のあがないしかありません。それを信じるとき、私たちは罪から解放されるのです。

 このような方であるからこそ、その誕生を祝わずにはおれなくなる。だからクリスマスは今日まで祝われ続けているのです。
 ヨハネは、「あなたの人生に喜びが満ちあふれるため、イエスは現れた」と言っています。その意味を知るなら、今年、あなたは喜びをもってクリスマスを祝うことができるでしょう。