光の中を歩もう

2020.03.30 「聖書再発見」
 コロナ騒ぎの中、新年度に入ります。新入生も保護者も喜び半分、いや不安の方が大きいのではないかと思います。しかし、いつまでも動揺を引きずるのではなく、神さまの守りを信じ、心機一転、新しい気持ちで臨んでいきたいと思います。
 タイミング良く、この4月から公用聖書を長年使ってきた口語訳聖書から聖書協会共同訳に替えることになりました。この機会に新しい訳を味わいながら、新しい発見をしていき、大いに恵まれたいと思います。週報も今週からすべて協会共同訳にいたします。「ヘブル人への手紙」が「ヘブライ人への手紙」、「詩篇」が「詩編」となっているのにお気づきになるはずです。書名、人名なども含め、なれるまでは違和感があるでしょうが、聖書本文の内容が変わったわけではありません。逆に意味がとおりやすい文章になっていますので、早くなじめるようにいたしましょう。
 ユダ王国の末期に登場したヨシヤ王はまっすぐな信仰の持ち主でした。彼を支えた預言者ゼパニヤらの存在も大きかったのですが、何よりも「律法の書」の発見が彼の宗教改革の推進力になりました(列王記下22:8~)。この聖書再発見により、彼の信仰もさらに深まっていったのです(同23:25)。私たちも神の御言葉のすばらしさを再発見し、ヨシヤのような信仰姿勢を持たせていただきましょう。
2020.03.23 「紫」
 スカイツリーが通常のライトアップで使っているのは「粋」の青と「雅」の紫で、この紫は「江戸紫」が採用されていると聞きました。私が好きな色は、このような古代紫です。日本の場合、草木で染めていく中で出せるようになったと思いますが、それだけに希少価値が高く、高貴な身分の人しか身につけられなくなってしまいます。ですから紫が最高位を表すシンボルカラーになっていくのです。
 考えてみると、世界の国旗で「紫」を使っている国がない!ですね。日本同様、染料が作りづらかったからです。
 さて、イエスさまは十字架にかけられる際、ローマ兵から外套を着せられています。マタイでは「赤い外套」ですが、マルコでは「紫の衣」(15:17)、ヨハネも「紫の上着」(19:2)となっています。どっちでしょう。実はこの時代、「アッキ貝」から染料を取っていました。ごく微量しか取れませんが、染めると紫紺系ではなく、赤紫に染まるのです。ですから、「赤」とも「紫」とも形容できたわけです。では、貴重な染料をふんだんに使って染めた着物をだれが持っていたのでしょうか。よく読んでみると、ヘロデが「はなやかな着物を着せて」おり、ヘロデ王の持ち物だったと考えれば、合点がいきます。
 主はイバラの冠をもかぶらされ、「王様!」ともてあそばれながら、十字架に進んでいかれたのでした。
2020.03.16 「春分」
 春分を日本のように休日にして祝う国も少なくないようです。キリスト教会では春分を直接祝いませんが、この日、正確には3月21日を基点としてイースターを決めるので、重要な日といえます。
 これは325年に開かれた「第1ニカイア公会議」で決められたのですが、この時に使っていたのが、1年を365.25日とするユリウス暦でした。今はより正確なグレゴリオ暦が使われているため、3月20日だったり、21日だったりするのですが、イースターの算出の場合には、この時に決められた3月21日に固定することになっています。イースターはその日を過ぎてから、満月を迎えた後に来る日曜日としているので、その年の満月の日によって1カ月近く違ってくるわけです。
 「なぜ春分なのか」ですが、主イエスが十字架にかかったのはユダヤで祝われていた過越祭の時でした。この過越が起こったのはニサンの月(正月)15日(出エジプト12:18)でして、これが春分の日あたりだったのです。主イエスの時代には満月の日にしていたので、それをBC45年から採用されていたユリウス暦にあてはめ、基点をニサンの月15日から、春分にして、満月を過ぎた日曜日を復活日として祝うように定めたのです。ですから、ユダヤ教で過越(ペサハ)を祝う時、キリスト教では受難週となることが多いのです。
2020.03.09 「かぶと」
 兜(かぶと)は古墳時代から存在しています。今でいう野球帽のような形でしたが、鎌倉時代以降、特に戦国時代に入り、はでな装飾をつけるようになったので、兜=戦国時代のイメージがあります。
 当然、武具ですから、存在していれば、戦いの場面に登場するはずですが、イスラエルが建国する以前には出てきません。最初に出てくるのは、ダビデとゴリアテの戦いの場面です。
 ゴリアテは青銅のかぶとをかぶって、イスラエルの前に出てきました(サム上17:5)。ペリシテ人には製鉄技術がありましたが、さすがに鉄製は重すぎたのかも知れません。対するダビデも最初は青銅のかぶとをつけるように進言されるものの、重かったために何もつけずにゴリアテの前に出て行きました。ということは、もうすでにこの時には青銅製のかぶとが出回っていたことになります。
 ヨシュアの占領時にはかぶとが出てきませんが、頭部を保護する防具は身につけていたような気がします。ギリシャ神話に出てくるヘラクレスが毛皮をかぶって戦ったとあるので、皮製だったかも知れません。
 エペソの手紙では、「救いのかぶと」(6:17)、テサロニケの手紙では「救いの望みのかぶと」(一5:8)とあります。私たちは「救い」をかぶってサタンの攻撃に立ち向かい、勝たせていただきましょう。
2020.03.03 「リース」
 車検の際に、リース契約をして新車に乗らないかと勧められました。自分の車ではなく、借りて乗るとなると、傷の心配をしたりして、ストレスを感じるのではないかと思い、迷っています。
 貸し借りは昔から自然に発生してきたと思います。聖書でも、モーセが語った神の律法に「家畜を借りて、それが傷つき、または死ぬ場合…必ずこれを償わなければならない」(出22:14)と、貸し借りについての条項があります。
 家畜だけではなく、農具なども貸し借りをしていたことがわかる箇所があります。「ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。『ああ、わが主よ、これは借りたものです』」(列王紀下6:5)。借りたおのの頭が振りかざした時にスポーンと抜けて、池の中に落ちてしまいました。弁償するには高価すぎたので、その人はあせってしまうのですが、でも、この人はその時、エリシャの指導で、預言者学校の寮を造っていたときでして、そばにいたエリシャにすぐに助けを求めることができ、おかげで、おのの頭は水の中から引き上げられ、事なきを得ています。
 新約聖書では、パウロが家を借りています。「パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで」(使徒28:30)とあるので、賃貸する行為があったわけです。ローマのことですから、不動産業も盛んだったのではないでしょうか。
2020.02.24 「スギ」
 新型コロナウィルスの陰に隠れて、スギ花粉はあまり話題にもならず、季節も終盤に入りました。
 ご存知のように、花粉アレルギーはスギだけではありません。私など春、夏、秋と違う花粉に反応するので、抗アレルギー薬は欠かせません。幸い、軽減されており、日常生活にはさほど支障なく過ごせています。
 聖書で最初に出てくるスギは、ノアの箱舟の建材だった「いとすぎ」です(創世記6:17~)。クリスマスツリーによく使われています。このいとすぎのほかにもうひとつ、エルサレムの神殿を造る際にも用いられ、聖書によく出てくるスギはレバノン杉、また香柏とも呼ばれています(列王紀上5:6など)。スギ?柏?いえ。実はマツの種類に分類されるそうです。
 いとすぎはヒノキ科イトスギ属で正真正銘のスギ。しかし、レバノン杉はマツ科ヒマラヤスギ属なのだそうです。良質な木材だったので建築、造船に重宝され、地元に莫大な富をもたらすのですが、伐採するだけで、植林しなかったために気づいたら絶滅寸前になってしまいます。これは大変と、わずかに残っている一帯を保存林とし、保護してきた結果、1998年、世界遺産に登録されました。場所はレバノン。レバノンの国旗を調べてみてください。中央に描かれているのがレバノン杉です。
2020.02.17 「入国審査」
 コロナウィルスも、相模原中央病院の医療従事者に感染したことがわかり、対岸の火事ではなくなりました。地元の病院ですから、通院していた人、そしてその家族と、どのようなかたちで感染していくか想像できません。お互い、人混みに出る際にはマスクをつけるなどし、万全を期したいと思います。
 すでに中国からの入国は制限され、入国審査が厳しくなっていますが、外国に入国する場合は、自分の国籍を明らかにし、許可を受けて入国することになります。
 ヨシュアが新指導者になったイスラエルは、それぞれの部族に割り当てられた領地をとっていきました。神さまから、そこにいる民たちはイスラエルがエジプトに行っている隙に住み着いてしまった人たちだから、滅ぼすようにと命じられていましたので、それを実行していきます。その勢いは住み着いていた民たちには脅威だったに違いありません。同盟を組んで戦おうとする民たちもいましたが、その中のギベオンに住んでいた民は、土着の民であることを隠し、わざと古びたかっこうをし、遠方からやってきた漂流民を装ってヨシュアの前に現れました。まんまとだまされたヨシュアは、居留の許可を与えてしまいます(ヨシュア9:3~)。
 ゴーン元会長もそうでしたが、出入国審査は、しっかりやってもらいたいですね。
2020.02.10 「感染」
 コロナウィルスの猛威はとどまるどころを知らず、オリンピックまでに終息宣言が出るだろうかとの心配もされています。先日ドラッグストアに行くと、マスクのコーナーだけ、ぽっかりとあいていました。この近所もパニックになっているようです。症状が出ない感染者がいることも防疫を難しくしている要因でしょうが、もはやパンデミック状態です。
 この「パンデミック」という語は、「パン(すべて)」+「デモス(人々)」=パンデミアとのギリシャ語から来ているので、今回、聖書のどこかにあるのではと、検索しましたが、見つかりませんでした。というのも、最初に思い当たったのが、「この男は、疫病のような人間で、世界中で騒ぎを起こしている」(使徒行伝24:5)とのパウロに対する非難の言葉だったからです。
 パウロの世界宣教で爆発的に信者が増えた結果、いわゆるユダヤ教の存続が危ぶまれる状態になりました。そこでユダヤ人大祭司アナニヤがローマ総督ペリクスに訴え、パウロを押さえ込んで撲滅を図ろうとします。しかし、時すでに遅し。もはやパンデミック、あらゆる人々に次から次へと福音が伝えられており、抑えることはできなくなっていました。
 ウィルスは押さえ込まなければなりませんが、人々を救う主イエスの福音については、さらにくまなく広がるよう祈らせていただきましょう。
2020.02.03 「議員」
 昨日、教会総会がありました。議論の場ではありません。教会がどのような活動を行ってきたかの報告をし、主が私たちの群れになしてくださったみわざを思い、感謝をささげる時あり、教会の運営に関する詳細な話し合いや決定はこの場ではなく、代表役員の牧師と教会員の互選で選ばれた6人の責任役員が担います。そのようにしなければ、刻々と変わる状況変化に対応できませんし、拘束時間も大幅に長くなってしまい、効率が良くありません。
 よく国会で聞かれる「民意」は、ひとりひとりの意見を集約したわけでなく、「国民が選んだ議員」に託されているわけで、だからこそ、いいかげんに選んではいけません。教会も組織です。パウロは弟子たちに対し、どのように運営していけば良いのかアドバイスをしており、特にその当時にあった「監督」「長老」「執事」といった役職を選ぶ際、よくその人物を吟味するように勧めています。
 そこで最も大切な資質として挙げられているのが、自分の信仰が、自分の家や周囲で歓迎されているかどうかです。口先だけでいろいろ言う事はできますが、それを自分が実行していなければ話になりません。「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか」(テモテ第一3:5)とありますが、問題を起こしている議員に教えてあげたいですね。
2020.01.27 「イチゴ」
 イチゴ狩りが各地で始まりました。この付近ですと厚木にあるのですが、ここは小規模なため、土日で取り尽くされ、金曜日あたりにならないと再開できないようです。一度、子どもたちが小さい時に、月曜日に行ってがっかりしているので、以来、私たちは小田原厚木道路の平塚インター近くにある「湘南イチゴ狩りセンター」を利用しています。圏央道を使うと30分ほどでつきます。練乳も無制限で使えるので、おすすめです。
 聖書にイチゴ、またはそれらしき食べ物を捜したのですが、残念ながら見つかりませんでした。欽定訳聖書を調べると、「mulberry」、つまり桑の実と訳されている箇所がありました。口語訳では、マツ科に属する「バルサムの木」(サム下5:23、歴代上14:14)と訳されていますので、ますます混乱してきますが、翻訳者の見解の違いです。ついでにもう一カ所、ルカ福音書17:5にでてくるマルベリー、こちらは「桑の木」と訳されています。 桑は「クワ科」、イチゴは「バラ科」なので、やはり「イチゴ」とは言えませんかね。
 すでに古代ローマ帝国時代はイチゴが栽培されていたようですし、マリヤがイチゴ好きだったとの伝説も残っています。食べていたはずなのですが。ちなみに、今のような甘さはなかったので、「薬」でもあったと言われています。
2020.01.20 「梅」
 昨日、水戸に行ってきました。 水戸と言えば偕楽園、偕楽園と言えば梅林です。こちらではつぼみも見受けられたので、少し期待をしたのですが、車窓から見える範囲では、まだまだでした。
 ご存じのように梅は冬を越してまっさきに花を咲かせるため、「春告げ草」などと呼ばれることがあります。この梅、バラ科サクラ属の木なのですが、聖書にはこの「梅」と親戚になる木がよく登場してきます。「あめんどう」です。聞き慣れないのですが、「アーモンド」と言えば、すぐにわかるでしょう。このアーモンドがバラ科サクラ属なのです。
 聖書の舞台となっているパレスチナは日本のように四季がはっきりしていないのですが、冬を越えてから最初に花を咲かすのが、あめんどう。梅が咲く感覚なので、自然、受け取り方も日本と同様で、「先見( さきみ) の花」と呼ばれます。将来起こる出来事を先に見ているようだと受け取り、神さまからの言葉を先に聞いて語る預言者に結びつけられます。
 預言者エレミヤが預言者に召し出される時、「『エレミヤよ、あなたは何を見るか』。わたしは答えた、『あめんどうの枝を見ます』。主はわたしに言われた、『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ』」(1:12) とのくだりがあります。
 梅を見ながら、来る春の暖かさを期待しましょう。
2020.01.13 「IR」
 国が法案まで作り、推し進める「IR」事業、簡単に言えば「いろいろな施設が一緒なっている娯楽地区」が、今、問題になっているのは、ショッピングモールや劇場ならまだしも、そこにカジノ設置が含まれているからなのです。安倍氏率いる自民党、創価学会が支持母体である公明党が強引に法案を通し、「カジノ」という違法賭博行為を「観光」の名目で合法化した。だから、横浜をはじめ、いくつかの自治体が賭博場を開きたいために誘致合戦を繰り広げているわけです。どれだけギャンブルが不幸を生み出しているのか、犯罪の引き金になっているのか、お金に目がくらんでしまった亡者たちには、そんなことを考える頭はありません。
 安倍自民党の、簡便な手段で経済数値だけを上げようとするもくろみと、公明党の目先だけを追うご利益主義が一致し、動き出しましたが、収賄事件が発生するなどし、現実にやる前から破綻が見え隠れし始めています。
 主イエスはそのような姿勢をたとえ戒めています。「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は『倉を取りこわし、もっと大きいのを建てよう。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』と言った。すると神が彼に言われた『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られる』」(ルカによる福音書12)。
 本当に大切なものを見極めてください。
2020.01.06 「けんかを売る」
 なぜトランプ大統領はこうも敵を作りたがるのでしょうか。
 サウル王から命を狙われ逃避行を続けていたダビデがパランの荒野にいた時のこと、600人ほどでしたがダビデを慕ってついてきていたけらいもいたので、彼らのためにも食料がほしかったダビデは、その土地の有力者ナバルという人物に提供を依頼しました。実は、この付近はいわゆる山賊などもおり、ダビデはことあるごとに外敵を追い払っていたので、決して厚かましい申し出ではなかったのですが、ナバルは偏屈な人で、「なに?ダビデ?そんなやつは知らねえよ(本当は助けてもらっているので、よく知っています)。だれが食いものなんかわけてやるか」、そうののしったのでした。
 ナバルの妻が機転を利かせてダビデ一行に食料提供しなければ、殺されるところでしたが、結局、彼はその出来事の10日ばかり後、死んでしまいます。
 なぜ彼は裕福なのにわずかな食料援助もせず、ダビデたちを怒らせたのでしょうか。それは自分のことしか考えていなかったからです。
 トランプ氏も同じです。「自分が有利になることだけ考えていればよい、その結果他人がどうなろうと知ったことじゃない」。そのような考え方が世界中にひろがっています。そして、私たちの身近にも起こっています。「ナバル(『おろかもの』との意味)」のような行為は、破滅しか招かないことを肝に銘じるべきです。
2020.01.01 「期待」
新年、おめでとうございます。今年も大いに神さまに期待しましょう。
 今年は私の家庭もそうなのですが、教会にもまた大きな変化がもたらされる年となります。こうした時に、大局を見ることは大切です。
 自分の固定観念にとらわれて、神さまが与えてくださったチャンスをみすみす失ってしまうことのないようにしたいと思います。
 そのためには、大きなビジョンを描いておくべきです。私はいつも驚いているのですが、神さまは私たちが忘れているような願いさえも心にとどめていてくださり、それを成就させてくださいます。もちろん、そのプロセスにおいて自分の思い描いていたような状況に陥ることもしばしばありますが、それは決して障害などではなく、必要不可欠な場面なのです。
 聖書にはたびたびそのような場面が記されています。主イエスが生まれつき目の見えない人の目をいやした時、神さまがこの人を通して栄光を表すために、目が不自由だったのだと言われています。マイナスな部分や失敗、さらには試練などを受けとめることは容易ではありませんが、そこに神さまが栄光を表してくださるためであるとするならば、その状態が「苦しみ」ではなく「期待」に変わっていくはずです。