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「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(新約聖書 エペソ人への手紙第3章20節)

徒労に賭ける

  •  「徒労に賭ける」。この言葉に出会ったのは高校時代でした。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」にある1節です。赤ひげが遊郭に売られた少女たちを定期的に訪ねては診察するのですが、結局助けることも助け出すこともできない。むだであるとわかっていながら、やめることをしない。そんな自分の気持ちを珍しく弟子に吐露する場面で、「俺のしてきたことは徒労かも知れないが、俺は自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている」と言うのです。高校生だった私は、その言葉に感銘を受け、自分もそのような生き方をしたいと思いました。

     今、多くの、そして様々なボランティア活動があり、熱心に取り組んでおられる方もおいででしょう。「労多くして功少なし」。まさに徒労に賭ける姿に頭が下がります。自分の利を求める傾向が強いこの世の中で、無私の活動が、これからますます重要になってくるはずです。しかし、そこにはある種の限界がないかと思わされるのです。

     1997年、時を同じくするように、その活動において尊敬されていた2人の女性が亡くなりました。マザーテレサとダイアナです。2人とも多大な功績を残していますが、決定的に違うことがありました。ダイアナは、献身的に活動はしていましたが、自分の心は愛に飢えていました。
     自分が愛されていない、その心を満たそうとして、愛をしぼりだしていた、その姿は悲壮です。考えてみれば、自分のコップが満たされていないのに、どうしてほかの人のコップに水を注ぐことができるでしょう。それがさきほど申し上げた「ある種の限界」と感じる点です。
     マザーテレサもまた愛を注ぎ続けた人です。しかし、彼女の心はダイアナとは違い、愛に満ちていました。マザーテレサはこう言っています。「私は毎朝、礼拝の中で神に愛されていることを覚え、感謝しています。神の愛に満たされていなければ、人も愛することはできないのです」。
     その言葉は、冒頭の言葉を根拠にしているように思います。

     私たちは大いなるこころざしを持ち、この社会に貢献すべきです。しかし、それをかなえるためには、自分の力ではなく、神の力によることを知らなければなりません。
     具体的には、自分が神に愛されていることを知ることから始まります。そして、この神の愛に根ざし、神の愛にしっかりと立っていることで、初めて成し遂げることができる。そう聖書は言っています。

     私たち夫婦が里親となり20年が過ぎました。私は、クリスチャンになり、神の愛を知らなければ、他人の子を育てるなど考えることもしなかったでしょう。ただし、保護の必要な子どもたちはいくらもいるのに、家に来た子ども、児童相談所に保護されたケースはほんの一握り。彼らの行く末も考えたら、徒労と言われてもおかしくありません。
     しかし、私は自分の生涯をかけて、「徒労に賭ける」つもりです。それは、私の内に働く神の力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方、神の愛が私を満たしているからです。