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「良くなりたいか」
                    (ヨハネによる福音書第5章6節)

希望を捨てるな 

  •  自粛が続く中で、見えない牢獄の中に閉じ込められているような錯覚さえ感じます。

     人は、このような状況におかれた時、何を考えるのでしょうか。
     仕事や学業に支障をきたし、計画していたことが無残にも砕かれる。そのような現実を見たら、誰もがうなだれてしまいます。
     しかし、あなたはこのままでよいのですか。

     精神分析学者ヴィクトール・E・フランクルは、第二次世界大戦時にアウシュヴィッツ強制収容所に収監されたユダヤ人です。彼は過酷な体験を強いられながらも、奇跡的に生還し、後に『夜と霧』を著しました。
     彼は著書の中で、なんとかしのいで、生きるチャンスをつかんだ人と、亡くなった人の違い、簡単に言うならば、「生」と「死」を分けたものが何かについて触れています。
     「未来を信じ、希望を抱いていたか」です。それを失った人は、精神的なよりどころを失い、自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのです。

     たとえば、1944年のクリスマスから新年にかけて、驚くほど多くの人が亡くなったそうです。どういうわけかその年の数カ月前から、まことしやかに「クリスマスには休暇が出て、帰宅できる」とのうわさが収容所内に広まっていきました。ところがそのクリスマス、そして新年が過ぎても何も起こりません。期待が裏切られていく中で、多くの者たちがその結果に落胆し、力尽きていったのです。
     フランクルは、「希望を見失わなかった者は生きた」と語っています。

     聖書に、38年もの間、病気がなおることを望んでいた人の話が出てきます(ヨハネによる福音書第5章)。

     ベトザタの池の周りには多くの病人がいました。「池の水が動いた時、真っ先に入った者はなおる」奇跡の池でした。ところが彼は自分で動くことができません。どんどん他の者がなおっていくのをただじっと見るしかなかったのです。
     そのような絶望的とも思える極限状態にいたこの病人ですが、しかし彼は、いつかなおるかもしれないという望みを捨てませんでした。

     そして38年目。出会ったのが主イエスです。
     主は「その人が横たわっているのを見」「長い間病気であるのを知って」、声をかけられました。

     「良くなりたいか」。

     主イエスは、この病人の心に、消えかかりそうな、しかし、それでもともし続けられている希望を見てくださいました。その希望がどんなに小さく、心の片隅に押し込まれたものであっても、主イエスはそれを見、それを知り、そして、無限の愛がこめられた言葉をかけられたのです。
     
     どうぞ、現実を見てあきらめないでください。あなたが「良くなりたい」なら、どうか希望を捨てないでください。
     なぜなら、主イエスはあなたのもとに歩み寄られるからです。そしてあなたに「良くなりたいか」と声をかけようとしてくださっているからです。

     あなたが主イエスによっていやされますように。