折々の御言葉

雪の降る日に
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(旧約聖書 イザヤ書第1章18節)
 寒さの厳しい季節を迎えています。
 私は温暖な地域で生まれ育ったものですから、学校で「雪やこんこ あられやこんこ」と歌っていても、実感がわいてきませんでした。「ふっては ふっては ずんずんつもる」といった日は、1度もなかったからです。
 しかし、今から30年前です。所用で冬の山形に行く機会がありました。そしてそこで一面の銀世界を目の当たりにしたのです。電車の車窓からすべてが雪におおいつくされている光景を見て、その美しさに思わず息をのみました。
 この聖書の言葉にある「緋」とは鮮やかな赤ですから、どこからでも目立つ色です。
 だれもが自分の中にいやだったり、きにいらない部分、また隠したいことなどが存在します。おさえたいとは思いながらも、逆にそれらがちょくちょく顔を出し、自分の生活に支障を来しています。
 なぜ、そのようなことが起きてしまうのでしょう。神と離れた生活によってもたらされる罪が原因なのだと聖書はいいます。しかし、同時に、神さまは、「あなたの心のけがれがどれほど赤くとも、わたし(神さま)は、雪のように白くできるのだよ」とおおせになっています。
 神さまは私たちを雪のように白く輝かせることができる力をお持ちなのです。
結論!
 一大決心をして聖書を読もうと思い、開くものの、何が書いてあるのかわからず、すぐに眠気が差してくる。そんな人はおられないでしょうか。
 学生時代、課題を提出する際、本来すべての資料に目を通さなければならないのですが、「結論」だけを読んで、なんとか形にしたようなことが何度となくありました。が、実は、ありがたいことに、聖書にも「結論」があるのです。冒頭の聖句のコヘレトとは伝道者という意味ですが、このコヘレトは、私たちの大好きな「結論」を記してくれているのです。
「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。
 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(旧約聖書・コヘレトの言葉(伝道の書)第12章8~13節・新共同訳)
 なんとも心地よく、こきみよく、ありがたい言葉です。コヘレトが、様々な知恵、知識を身に積み、先人たちの言葉や第三者からのアドバイスを分析し、自分自身で実践し、体験していった事柄の結論を語ってくれています。
 断捨離(だんしゃり)という言葉をご存じでしょうか。簡単に言うと、「必要なもの以外は捨てろ」という意味です。司馬遼太郎が『街道をゆく』の『モンゴル紀行』で、遊牧民を「奇跡的なほど物欲が少ない」と評していますが、今でも彼らは余計なモノは一切持たずに生活しています。私たちにしてみれば、これは驚きだと思います。しかも、モノがあふれた国よりも、モノをもたない国の人たちのほうがはるかに幸福度が高いのです。
 私たちはいつの間にか、自分の満足のために身につけたもので身動きがとれない状態になっています。あれもこれもと身につけた結果、豊かになるどころか、逆に、「自分が何をしたいのかわからない」「自分の生き方が見いだせない」と心に迷いが生じ、悩むようになるのです。おそらくは、そのまま修正しなければ、自分の歩み方もぶれていくに違いありません。
 では人間とは、人生とは一体何なのでしょうか。その時こそ、心して「結論」を読むべきです。コヘレトは「『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて、人間の本分である」と、私たち人間の最も柱となる結論を、そのように導き出しています。神を心の柱とし、神の意志にそって生きる、それが人間本来の生き方でなければならないのです。
「徒労に賭ける」
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(新約聖書 エペソ人への手紙第3章20節)

 「徒労に賭ける」。この言葉に出会ったのは高校時代でした。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」にある1節です。赤ひげが遊郭に売られた少女たちを定期的に訪ねては診察するのですが、結局助けることも助け出すこともできない。むだであるとわかっていながら、やめることをしない。そんな自分の気持ちを珍しく弟子に吐露する場面で、「俺のしてきたことは徒労かも知れないが、俺は自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている」と言うのです。高校生だった私は、その言葉に感銘を受け、自分もそのような生き方をしたいと思いました。
 今、多くの、そして様々なボランティア活動があり、熱心に取り組んでおられる方もおいででしょう。「労多くして功少なし」。まさに徒労に賭ける姿に頭が下がります。自分の利を求める傾向が強いこの世の中で、無私の活動が、これからますます重要になってくるはずです。しかし、そこにはある種の限界がないかと思わされるのです。
 1997年、時を同じくするように、その活動において尊敬されていた2人の女性が亡くなりました。マザーテレサとダイアナです。2人とも多大な功績を残していますが、決定的に違うことがありました。ダイアナは、献身的に活動はしていましたが、自分の心は愛に飢えていました。
 自分が愛されていない、その心を満たそうとして、愛をしぼりだしていた、その姿は悲壮です。考えてみれば、自分のコップが満たされていないのに、どうしてほかの人のコップに水を注ぐことができるでしょう。それがさきほど申し上げた「ある種の限界」と感じる点です。
 マザーテレサもまた愛を注ぎ続けた人です。しかし、彼女の心はダイアナとは違い、愛に満ちていました。マザーテレサはこう言っています。「私は毎朝、礼拝の中で神に愛されていることを覚え、感謝しています。神の愛に満たされていなければ、人も愛することはできないのです」。
 その言葉は、冒頭の言葉を根拠にしているように思います。
 私たちは大いなるこころざしを持ち、この社会に貢献すべきです。しかし、それをかなえるためには、自分の力ではなく、神の力によることを知らなければなりません。
 具体的には、自分が神に愛されていることを知ることから始まります。そして、この神の愛に根ざし、神の愛にしっかりと立っていることで、初めて成し遂げることができる。そう聖書は言っています。
 私たち夫婦が里親となり20年が過ぎました。私は、クリスチャンになり、神の愛を知らなければ、他人の子を育てるなど考えることもしなかったでしょう。ただし、保護の必要な子どもたちはいくらもいるのに、家に来た子ども、児童相談所に保護されたケースはほんの一握り。彼らの行く末も考えたら、徒労と言われてもおかしくありません。
 しかし、私は自分の生涯をかけて、「徒労に賭ける」つもりです。それは、私の内に働く神の力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方、神の愛が私を満たしているからです。