折々の御言葉

明日がある?
 私は学生時代、あまり天気予報を聞きませんでした。なにか主義主張があるのではなく、ただ面倒だったからです。自分の勘を信じて傘を持たずに出て、雨に降られた時などは、「今日は負けた」などとつぶやいたりしていました。
 私の場合はともかく、天気の予測についてはいろいろあって、例えば野球ファンは「今日広島球場が雨で中止になったから、明日は雨だ」と大胆に言ってのけ、かなりいい確率で当たったりします。動物などを見てわかる人もいるようです。
 今の天気予報は1980年6月から採用された「降水確率」を使っているので、以前のあいまいさとは数段進歩しています。データの蓄積もありますし、気象衛星を使ってのかなり詳しい予測も可能になってきました。しかしそれでも100%というわけにはいきません。

 天気よりも知りたいのが、私たちの「明日」です。しかし、少しくらいわかれば楽なのですが、予測不能ときています。明日というか、次の瞬間何が起こるのさえわかりません。

 10年ほど前に「明日がある」という歌が再ヒットしたことがあります。明日どんなことがあるかわからないけれど、がんばっていこうよと歌っています。姿勢はすばらしいと思いますが、「明日がある」とだれが保証してくれるのでしょう。私には、「また明日」とあいさつして別れた友人が、その翌日、交通事故にあって亡くなったという悲しい思い出があります。

 聖書はそんな私たちに「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブの手紙第4章14節)と言っています。

 天気ならばまだしも、毎日毎日何が起こるかわからない時を過ごし、明日を心配して神経をすりへらしている方は多いはずです。占いにはしるのがその証拠です。不確実でも何かにすがって安心を得たい気持ちはわかります。しかし、そもそも信じ切れないものに頼ったところで心が平安になるなどあるわけがありません。

 ぜひ、聖書の言葉に耳を傾けてください。そこには、神こそが私たちの「明日」を知っておられる唯一の方だと教えられています。
 確率や予測に頼る、ギャンブルのような生き方ではない、確実な生き方、それは私たちの明日を知ってくださっている神に、自分の歩む道をすべてまかせていくことです。必ず、すべての不安は解消され、自信を持って毎日を送れるようになるでしょう。

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな」(マタイによる福音書第6章33節)。
 あなたの明日を神におまかせするのです。
 あなたに、神の平安がもたらされますように。
ふるやのもり
 子どものころ住んでいた家は、よく雨もりがしました。「ポタッ ポタッ」と落ち始めると、鍋ややかんを持ってきて、雨を受けるのです。にぎやかな音がしていたものです。
 あなたは「ふるやのもり」という昔話を知っておられるでしょうか。
 昔、山里に古くて粗末な一軒の家に、おじいさんとおばあさん、そして小さな孫が住んでおり、またその家にはふつりあいのようなりっぱな馬が飼われていました。
 さて、この馬を、自分は日本一の泥棒だと思っている男と、森に住むオオカミがねらっていました。
 両者は雨の日を選んでその家に忍び込み、泥棒は天井裏で、オオカミは土間で夜の更けるのを待ちます。
 その夜、寝際に孫が聞きました。
 「この世で一番怖いものは何?」
 「人間の中じゃ、泥棒が一番だろう」とおばあさんが答えました。これを聞いた泥棒は大喜び。
 「じゃあ動物の中では?」
 「うーん。オオカミじゃろう」。今度はオオカミがにんまり。
 続けて孫が聞きました。
 「泥棒やオオカミより怖いものがある?」
 「そりゃ一番怖いのは、ふるやのもりじゃ。はようねんと、今夜あたり来るかもしれん」。
 びっくりしたのは泥棒とオオカミです。自分たちより恐れられているものがいるというのです。
 ご存知のように、ふるやのもりとは、古い家の雨もりのことですが、両者はふるやのもりが何であるかわからないまま、結局恐れが頂点に達したころ、雨が激しくなって、雨もりが始まるのです。
 おじいさんが「そら、ふるやのもりじゃ」と叫んだ途端、驚いた泥棒は土間にいたオオカミの上に落ち、オオカミは「ふるやのもり」に捕まえられたと思って逃げだし、泥棒は疾風のごとく走り出した毛むくじゃらのけものが「ふるやのもり」だと思ってそのまま逃げてしまうのです。
 ある研究者に聞いた話ですが、目隠しをさせ、「熱いぞ」といいながら氷に触れさせると、熱いと感じるだけではなく、やけどすらできることもあるといいます。
「からだを殺しても、そのあとでそれ以上何もできない者どもを恐れるな  権威ある方を恐れなさい」(ルカによる福音書第12章4~5節)とあります。
 あなたは実態がわからないことで恐怖心がつのり、恐れなくてもいいものを恐れてはいないでしょうか。
 本当に恐れるべきものは、この世のすべての権威を持っておられる神です。神を無視し、あなどっているから恐れる必要のないものを恐れるのだと聖書は言っています。
 神を権威のある方として信じ、従っていくならば、この世のすべての動き、物事の仕組みは解明され、何者をも恐れない生き方ができるのです。
雪の降る日に
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(旧約聖書 イザヤ書第1章18節)
 寒さの厳しい季節を迎えています。
 私は温暖な地域で生まれ育ったものですから、学校で「雪やこんこ あられやこんこ」と歌っていても、実感がわいてきませんでした。「ふっては ふっては ずんずんつもる」といった日は、1度もなかったからです。
 しかし、今から30年前です。所用で冬の山形に行く機会がありました。そしてそこで一面の銀世界を目の当たりにしたのです。電車の車窓からすべてが雪におおいつくされている光景を見て、その美しさに思わず息をのみました。
 この聖書の言葉にある「緋」とは鮮やかな赤ですから、どこからでも目立つ色です。
 だれもが自分の中にいやだったり、きにいらない部分、また隠したいことなどが存在します。おさえたいとは思いながらも、逆にそれらがちょくちょく顔を出し、自分の生活に支障を来しています。
 なぜ、そのようなことが起きてしまうのでしょう。神と離れた生活によってもたらされる罪が原因なのだと聖書はいいます。しかし、同時に、神さまは、「あなたの心のけがれがどれほど赤くとも、わたし(神さま)は、雪のように白くできるのだよ」とおおせになっています。
 神さまは私たちを雪のように白く輝かせることができる力をお持ちなのです。
結論!
 一大決心をして聖書を読もうと思い、開くものの、何が書いてあるのかわからず、すぐに眠気が差してくる。そんな人はおられないでしょうか。
 学生時代、課題を提出する際、本来すべての資料に目を通さなければならないのですが、「結論」だけを読んで、なんとか形にしたようなことが何度となくありました。が、実は、ありがたいことに、聖書にも「結論」があるのです。冒頭の聖句のコヘレトとは伝道者という意味ですが、このコヘレトは、私たちの大好きな「結論」を記してくれているのです。
「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。
 コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(旧約聖書・コヘレトの言葉(伝道の書)第12章8~13節・新共同訳)
 なんとも心地よく、こきみよく、ありがたい言葉です。コヘレトが、様々な知恵、知識を身に積み、先人たちの言葉や第三者からのアドバイスを分析し、自分自身で実践し、体験していった事柄の結論を語ってくれています。
 断捨離(だんしゃり)という言葉をご存じでしょうか。簡単に言うと、「必要なもの以外は捨てろ」という意味です。司馬遼太郎が『街道をゆく』の『モンゴル紀行』で、遊牧民を「奇跡的なほど物欲が少ない」と評していますが、今でも彼らは余計なモノは一切持たずに生活しています。私たちにしてみれば、これは驚きだと思います。しかも、モノがあふれた国よりも、モノをもたない国の人たちのほうがはるかに幸福度が高いのです。
 私たちはいつの間にか、自分の満足のために身につけたもので身動きがとれない状態になっています。あれもこれもと身につけた結果、豊かになるどころか、逆に、「自分が何をしたいのかわからない」「自分の生き方が見いだせない」と心に迷いが生じ、悩むようになるのです。おそらくは、そのまま修正しなければ、自分の歩み方もぶれていくに違いありません。
 では人間とは、人生とは一体何なのでしょうか。その時こそ、心して「結論」を読むべきです。コヘレトは「『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて、人間の本分である」と、私たち人間の最も柱となる結論を、そのように導き出しています。神を心の柱とし、神の意志にそって生きる、それが人間本来の生き方でなければならないのです。
「徒労に賭ける」
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえてくださることができるかた」(新約聖書 エペソ人への手紙第3章20節)

 「徒労に賭ける」。この言葉に出会ったのは高校時代でした。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」にある1節です。赤ひげが遊郭に売られた少女たちを定期的に訪ねては診察するのですが、結局助けることも助け出すこともできない。むだであるとわかっていながら、やめることをしない。そんな自分の気持ちを珍しく弟子に吐露する場面で、「俺のしてきたことは徒労かも知れないが、俺は自分の一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている」と言うのです。高校生だった私は、その言葉に感銘を受け、自分もそのような生き方をしたいと思いました。
 今、多くの、そして様々なボランティア活動があり、熱心に取り組んでおられる方もおいででしょう。「労多くして功少なし」。まさに徒労に賭ける姿に頭が下がります。自分の利を求める傾向が強いこの世の中で、無私の活動が、これからますます重要になってくるはずです。しかし、そこにはある種の限界がないかと思わされるのです。
 1997年、時を同じくするように、その活動において尊敬されていた2人の女性が亡くなりました。マザーテレサとダイアナです。2人とも多大な功績を残していますが、決定的に違うことがありました。ダイアナは、献身的に活動はしていましたが、自分の心は愛に飢えていました。
 自分が愛されていない、その心を満たそうとして、愛をしぼりだしていた、その姿は悲壮です。考えてみれば、自分のコップが満たされていないのに、どうしてほかの人のコップに水を注ぐことができるでしょう。それがさきほど申し上げた「ある種の限界」と感じる点です。
 マザーテレサもまた愛を注ぎ続けた人です。しかし、彼女の心はダイアナとは違い、愛に満ちていました。マザーテレサはこう言っています。「私は毎朝、礼拝の中で神に愛されていることを覚え、感謝しています。神の愛に満たされていなければ、人も愛することはできないのです」。
 その言葉は、冒頭の言葉を根拠にしているように思います。
 私たちは大いなるこころざしを持ち、この社会に貢献すべきです。しかし、それをかなえるためには、自分の力ではなく、神の力によることを知らなければなりません。
 具体的には、自分が神に愛されていることを知ることから始まります。そして、この神の愛に根ざし、神の愛にしっかりと立っていることで、初めて成し遂げることができる。そう聖書は言っています。
 私たち夫婦が里親となり20年が過ぎました。私は、クリスチャンになり、神の愛を知らなければ、他人の子を育てるなど考えることもしなかったでしょう。ただし、保護の必要な子どもたちはいくらもいるのに、家に来た子ども、児童相談所に保護されたケースはほんの一握り。彼らの行く末も考えたら、徒労と言われてもおかしくありません。
 しかし、私は自分の生涯をかけて、「徒労に賭ける」つもりです。それは、私の内に働く神の力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方、神の愛が私を満たしているからです。